公開日:2026年1月29日

「向井山朋子 Act of Fire」展(アーツ前橋)レポート。暗闇のなかで、感覚の輪郭をたどる回廊型インスタレーション

アムステルダムを拠点に活動するピアニスト・アーティストの日本初大規模個展が群馬県で開催中。会期は1月24日〜3月22日

展覧会風景

始まりは15年前、震災で出会った2台のグランドピアノ

アムステルダム在住のアーティストでピアニストの向井山朋子による個展「向井山朋子 Act of Fire」が、群馬・アーツ前橋で開催されている。向井山にとって日本の美術館では初の大規模個展となる本展は、地下に連なる6つのギャラリーを劇場のように見立てた回廊型インスタレーションとして構成され、音、映像、オブジェ、そして地、月、血、火の4つのエレメントを通して、個人の記憶と世界の痛みが重ね合わされる。

本展会期中の3月11日、東日本大震災の発生から15年を迎える。その節目は本展を形づくる重要な要素のひとつであるが、「Act of Fire」が向き合うのは3.11という出来事の記憶だけではない。ジェンダー不平等、社会構造に内在する暴力、抑圧のなかで蓄積されてきた怒り、そしてピアニストとして生きるいっぽうで、演奏とは別の場所で重ねてきた人生の経験。そうした要素が時間をかけて積み重なり、この展覧会へとつながった。

会場に足を踏み入れると、まず感じられるのは、明示的な主張や説明よりも、どこか抑制された空気だった。震災、災害、戦争、ジェンダー不平等といった主題は、展示全体に溶け込むように配置されている。光の落ち方や音の広がり、空間のリズムが重なり合うなか、鑑賞者は回廊を進む。本企画を担当した宮本武典「剥き出しの感情を前面に出すのではなく、少しベールに包んだ形にしたかった。そうすることで、見る人それぞれが、自分のなかにあるものを投影できる空間にしたいと思った」と話す。

「被災した人たちは、痛みを包むようにして生きてきた。表に出さずに、でも確かに抱え続けてきたものがある」(向井山)

向井山は、「見えない痛み」をベール越しの気配として空間に響かせる。そうした感覚が、回廊を進む鑑賞者の経験や記憶と響きあう。その象徴として、展示の冒頭に現れるのが、津波によって破壊された2台のグランドピアノによるインスタレーションだ。

1階から地下を見下ろすと微かに見える2台のグランドピアノ
会場風景

震災当時、向井山は作品《wasted》の東北巡回を準備していた。しかし、東日本大震災の発生によって、その計画は実現することなく中断される。アムステルダムから帰国し被災地に入った彼女は、宮城県石巻市湊地区で、津波による甚大な被害を受けた2台のグランドピアノと出会った。かつて多くの子供たちが学んだ学校で校歌を奏でていたピアノには、津波が運んだ泥や砂、瓦礫がそのまま残されていた。

本展で展示されている《夜想曲/Nocturne》は、地上階のギャラリー1から、地下階のギャラリー2を見下ろすかたちで配置されている。両者をつなぐ吹き抜けには黒幕がかけられ、向こう側の空間は見通せない。奈落の底を覗き込むように暗がりに目をこらすと、ピアノの輪郭がかすかに浮かび上がり、かつてそのピアノが置かれていた学校の校歌が流れている。2台のピアノは、癒しや再生を語るための象徴としてではなく、語りきれない傷を抱えた存在として、空間のなかに佇んでいる。

暗闇のなかを進むうちに目が慣れ、視界に大きな赤い月が浮かび上がる。巨大なLEDパネルに映し出されたその満月は、刻々と姿を変えながら、地下へと向かう動線を照らす。

会場風景
自身の名前、朋子も月がふたつあることもあり、思い入れのある作品だと言う

メタファーを通して辿る、向井山朋子の記憶

展示は次第に、より個人的な記憶や身体の感覚へと近づいていく。ギャラリー3・4では、2009年に発表された《wasted》が、通路状の空間に再構成されている。向井山自身の血で染めたドレスや靴、古い家具や鳥籠、そして閉じられたまま置かれたグランドピアノ。通路を進みながらそれらを目にしていくと、断片的なイメージが重なり合い、向井山が辿ってきた時間の層が浮かび上がってくる。

《wasted》より。向井山が、公演や演奏の場で実際に身につけてきたドレス
床一面に積み重ねられた写真


「生理って、ずっと隠されてきたものだと思う。でも、毎月確実に起きて、身体の時間を刻んでいく。私にとっては、セレブレイトでもあるんです」(向井山)

ピアニストとして舞台に立つ経験を続けるなかで、語られにくかった身体の変化や感情、痛みを、向井山は作品へと持ち込んできた。血で染められたドレスやオブジェは、そうした痕跡を展示空間に留めている。

会場風景
会場風景
会場風景
会場風景

内に秘めた火を灯す

回廊の最奥に位置するギャラリー5・6では、空間の印象が徐々に変わっていく。まず聞こえてくるのは、無人のピアノがひとりでに演奏を続ける。鍵盤だけが動き、一定のテンポで音が鳴り続けている。

その演奏に合わせるように映像が展開され、スクリーンにはピアノが炎に包まれていく様子が映し出される。火のイメージは徐々に空間の様相を変えていく。その変化に引き寄せられるように、視線や意識が留まる時間が生まれる。

暗闇を抜けると、一台のアップライトピアノが突如現れる
会場風景
会場風景

地下の回廊を歩き終えるころ、鑑賞者の内側では、展示のなかで出会ったイメージが、これまで言葉にすることをためらってきた感覚や、個々の経験と結びついていくように感じられる。

「何かを説明するためではなく、内側から湧き上がるものに導かれてきた」(向井山)

向井山のこの言葉は、本展を考えるうえで、ひとつの手がかりになるかもしれない。展示の終盤で強く印象に残る火のイメージも、地や月、血といった要素を経た体験の延長として、受け取ることができる。「Act of Fire」は、受け止め方がひとつに定まらない展示だ。回廊に置かれた要素は、鑑賞者それぞれの経験や記憶と結びつきながら、異なるかたちで受け止められていくだろう。

福島 吏直子(編集部)

福島 吏直子(編集部)

「Tokyo Art Beat」編集部所属。編集者・ライター。