もうひとりの、知られざる「黒の画家」。アンドレ・マルファンの日本初個展を読み解く(文:新畑泰秀)

銀座にあるセイソン&ベネティエールにて、アンドレ・マルファンの日本初個展「水墨画(1960年代〜1980年代)」が開催中。会期は3月28日まで(構成:灰咲光那)

アンドレ・マルファン 画像提供:セイソン&ベネティエール

銀座で出会う、もうひとりの「黒の画家」

ときに大胆、ときに精細な黒の筆触が紙の支持体を縦横無尽に駆け巡る様は、偶然に任せて描かれたように見える。しかし画面を丁寧に見てみると、画家が試行錯誤の末に、様々な技法を駆使して慎重に構成を行なった過程が立ち現れてくる。モノクローム、なかでも「黒」の表現の可能性を生涯追い求めた「もうひとりの」抒情的抽象の画家、アンドレ・マルファンの日本初個展「水墨画(1960年代〜1980年代)」が、東京・銀座のセイソン&ベネティエールで開催されている。

アンドレ・マルファン 画像提供:セイソン&ベネティエール

戦後間もないフランスで黒の可能性を追求した画家としては、ピエール・スーラージュの存在があまりにも大きい。また、水墨を熟知してその技法と特質を西洋画に展開した中国出身のザオ・ウーキー、そして日本出身の堂本尚郎の存在があり、彼らに比肩する画家の存在は少ない。類似した様式を試みた画家の多くはその亜流とみなされることが多かったのではないか。本展は戦後フランスの「抒情的抽象」の時代に現れたもうひとりの「黒の画家」の画業をたどる試みだ。

アンドレ・マルファンの止まることなく「黒」の表現の可能性を探究し続けた画業と作品は、ほかの画家と明らかに一線を画している。黒の濃淡、筆跡、掠れ、墨を散らす潑墨等々、それら多様な技法による表現をいかに効果的に配し、空間を創造するかの試行錯誤が長い時間をかけて試みられてきた。その足跡の一端をこの展覧会で見ることができる。

アンドレ・マルファン「水墨画(1960年代〜1980年代)」会場風景 画像提供:セイソン&ベネティエール © Sakamoto Osamu

会場となるセイソン&ベネティエールは2006年にフランスのサン=テティエンヌに設立された現代美術ギャラリーの東京ブランチ。創業のメンバーは、フランソワ・セイソンとロイック・ベネティエールで、さらにフランソワの父親であるベルナール・セイソンがアドバイザーとして参加した。ベルナールは1987年からサン=テティエンヌ近代美術館の館長を務め、かつてはポンピドゥー・センター国立近代美術館でも要職を歴任した人物。ロイックとフランソワは幼少期から親交があったという。彼らの画廊が中心に据えるのは、1960年代末から70年代初頭のフランスで興った前衛美術運動シュポール/シュルファス。ベルナール・セイソン自身がこの運動の創始者たちと親しく、熱烈な擁護者であったことから、ギャラリー創設の理念もこの運動に関わる作家たちを再評価することに据えられた。1991年にはサン=テティエンヌ近代美術館でシュポール=シュルファスに関わる展覧会が開催された。また、程なくして日本では、1993年に「1970年・南仏—パリ シュポール/シュルファス展」がベルナールらの尽力により埼玉県立近代美術館ほかで開催されている。

セイソン&ベネティエールは、これまでにパリ、リヨン、ルクセンブルク、ニューヨーク、ジュネーヴなどに活動の拠点を広げ、2025年5月には東銀座にアジア初進出となる支店をオープンした。ここでの展覧会もシュポール/シュルファスの紹介から幕を開けたが、このたびの展覧会では、アンドレ・マルファンを紹介している。近年はシュポール=シュルファスより先行するフランスの戦後前衛美術に目を向けており、アンドレ・マルファンはその過程で再発掘された画家であるという。この展覧会はパリの本店とほかの支店に先駆けて行われるとのことだ。キャリアのある画家だが、これまで本邦においては紹介されることは稀で、その存在を知る人は極めて少ないのではないか。

アンドレ・マルファン「水墨画(1960年代〜1980年代)」会場風景 画像提供:セイソン&ベネティエール © Sakamoto Osamu

展覧会は、アンドレ・マルファンによる未発表作品で構成されている。いずれも遺族のもとに大切に保管されていた、1950年代から1980年代にかけての約30年にわたる期間に制作された紙作品である。これまで一度も公開されたことのない作品群であり、マルファンの表現の変遷を見ることができる。

アンドレ・マルファン「水墨画(1960年代〜1980年代)」会場風景 画像提供:セイソン&ベネティエール © Sakamoto Osamu

絶え間なく、黒を刷新する

アンドレ・マルファンはフランス南西部のトゥールーズで1925年12月11日に生まれた。当初は法学を志すが、1949年、24歳のときにパリに出る。そしてフェルナン・レジェのアトリエを訪問したことをきっかけに、自ら絵画を志すことになる。1952年には「独立派展」でピエール・スーラージュと出会っている。1953年には「サロン・ド・メ」に出品。1956年10月にパリのクロード・ベルナール画廊と契約を結び、2年後の1958年に同画廊で初の個展を開催した(『抽象芸術の冒険』(1957)の著者ミシェル・ラゴンが『シメーズ』誌で展評を執筆している)。1959年にはアクリル絵具を用いた制作を開始し、版画作品も制作している。1962年にはマネシエ、ポリアコフといった画家たちとともにフランス代表としてヴェネチア・ビエンナーレに出展している。1978年にはオルレアン文化会館で大規模な個展が開催され、1986年にはジャン・ポラックが自身の画廊で大規模な回顧展を企画した。

1987年3月30日、パリにて死去。没後は、パリとトゥールーズで一連の個展が開催されている。その後も現在に至るまで、フランスを中心としたヨーロッパでは個展やグループ展で作品が見られる機会はあったようだ。近年の例としては、2017年にカルカッソンヌ美術館で同館の主任学芸員マリー=ノエル・メナールとカンペール美術館の学芸員ギヨーム・アンブロワーズとの共同企画により「アンドレ・マルファン-絵画=ラヴィ(淡彩)」展が開催され、比較的まとまった絵画作品が紹介されている。

アンドレ・マルファン  画像提供:セイソン&ベネティエール

1950年代初頭、ロジェ・ビシエールモーリス・エステーヴアルフレッド・マネシエジェラール・シュネデールら多くの芸術家との交流を重ねるなかで、具象絵画から離れ非具象絵画へと向かい、1952年には抽象表現に至った。その初期の動向は、戦後フランスの抒情的抽象の範疇で語られるものであるが、その在り方は特異で、早い段階より黒一色を使った画面構成であり、しかもその表現を多様に試み、様式は絶え間ない刷新を続ける。1960年代には、アクション・ペインティング的な激しく荒々しい筆致が画面を支配するが、1970年代以降、次第に画面の要素は単純化され、洗練された様式へと進化する。1980年代、晩年の作品においてはさらに進化してミニマルな要素が画面を支配するようになる。

2023年にスキラ社から充実した絵画作品の総目録が出版されているが、監修したのは画家の娘マリーと息子ディディエであった。さらに目録には1931点の作品も収録されており、その情報はマルファンの妻が画家の作品と制作の経緯をこまめに記録し整理していたことによるところが大きい。

アンドレ・マルファン 画像提供:セイソン&ベネティエール

日本との関わりがじつは活動の初期からある。初めて日本に出品したのは1958年、33歳のとき、ミシェル・タピエが参加した大阪での展覧会「具体9 大阪国際芸術祭 新しい絵画 世界展(アンフォルメルと具体)」である。また、1966年から67年にかけて東京と京都の国立近代美術館で開催された「第5回東京国際版画ビエンナーレ」に1点が出品されている。ただし、いずれの場合も作家が来日することはなかったようだ。じつは、生涯日本の土地を踏むことはなかったという。前述した同時代の画家らとともに、マルファンは戦後にあらわれた黒の表現者であるが、彼らの作品をマルファンの作品を比べると、その作品自体も、作品の時代による発展の仕方も決定的に異なる。すなわち東洋との関係が希薄な画家の作品としての意義がマルファンの作品には明確に存在する。

マルファンは油彩やアクリルも用いて多くの作品を制作しているが、今回の展覧会に出品されているのは、紙作品のみだ。次に時代順にいくつかの出品作を見ていくこととしたい。

アンドレ・マルファン「水墨画(1960年代〜1980年代)」会場風景 画像提供:セイソン&ベネティエール © Sakamoto Osamu

東洋と無縁の「黒」とは

《M.6》は1962年頃の作品。今回出品されている作品のなかには、単色の彩色で生まれる様々な表現が詰め込まれている。技法を一通り経験した後に、それぞれを丁寧に画面の中に盛り込んでいるようだ。滲みや滲みの表現も多種黒の濃淡も一様ではない。個々の箇所が平面をかたち作り、その濃淡が画面の押し引きを作り出している。あたかもホフマンのプッシュ&プルのように、バイオモルフィックな形態が互いに押したり引いたりして、画面の深奥を作り出している。

アンドレ・マルファ M.6 1962頃 画像提供:セイソン&ベネティエール

いっぽう、《M.17》は1969年頃の作品。マルファンの多様な技法の試みが確認できる。白い下地に幅の異なる平筆を使って彩色されている。ところどころ筆跡も意識的に残され、画面に動感と触知感を生み出している。紙に染み込む滲みや滴り、筆の掠れも効果的に使われており、制作時の様々な動きを見る者に想起させる非常にアクティヴな画面となっている。

アンドレ・マルファ M.17 1969頃 画像提供:セイソン&ベネティエール

白地が画面の大半を占める《Z.14》(1984)の構図は、初期の画面構成と対照的だ。装飾を排した洗練された白の空間を切り裂くように塗られた一筆に力の漲りを感じさせる。いっぽうで、上部の黒く塗りつぶした箇所は単純ではない。筆跡や掠れなどを意図的に残すことで、静謐な空間のなかの揺らぎを示している。

アンドレ・マルファ Z.14 1984 画像提供:セイソン&ベネティエール

晩年に制作された《1039-1》は1981年の作品。ここではもはや黒は主役ではない。下地の白はやはり平滑ではなく、様々なニュアンスが込められている。その上に施された薄塗りの彩色が、紙という素材のテクスチャーを浮き上がらせている。さらにその上を走る黒のジグザグ線が軽妙なリズム感を生み出している。

アンドレ・マルファ 1039-1 1981 画像提供:セイソン&ベネティエール

アンドレ・マルファンは「熱い抽象」「抒情的抽象」あるいは日本ではタピエにより「アンフォルメル」として紹介されたフランスの戦後抽象の時代に活動した画家である。そのなかでも「黒の表現」に生涯こだわり、スーラージュ、ザオ・ウーキー、堂本尚郎らと並列して語られるべき画家であるが、彼らとはその様式がまったく異なることも認識しなくてはならない。その理由は、生涯の作品を詳細に見てさらに分析する必要があるが、ひとつには東洋とのかかわりの希薄さにあると思う。ほかの画家たちの場合、どこかで東洋の水墨との接点があるのだが、マルファンの場合、生涯を通じてアジア、そして日本に滞在することは一度もなかった。その意識がまったくなかったとも考え難いが、東洋の墨の表現、あるいはその哲学とは無縁の、純粋に西洋的な技法と思考につねに裏付けられた作品群は、その特異性がより探究されるべきだし、今回日本に届けられた作品には多分に現れてているように感じられた。戦後フランス抽象におけるモノクロームの表現の一面を新たに発見する貴重な機会を提供してくれる展覧会だと言えよう。

新畑泰秀

新畑泰秀

しんばた・やすひで 石橋財団アーティゾン美術館学芸員/教育普及部長。横浜美術館主任学芸員、石橋財団ブリヂストン美術館学芸課長、石橋財団アーティゾン美術館学芸課長を経て現職。これまでに企画・担当した展覧会として、2004年『失楽園:風景表現の近代 1870-1945』、2008-09 年『セザンヌ主義』(以上横浜美術館)、2011年『アンフォルメルとは何か?』、2013年『都市の印象派-カイユボット展』、2014年『ウィレム・デ・クーニング展』(以上ブリヂストン美術館)、2021年『Steps Ahead』、2022年『ジャム・セッション 写真と絵画−セザンヌより 柴田敏雄と鈴木理策』(以上アーティゾン美術館)、2023年『ABSTRACTION 抽象絵画の覚醒と展開』等を担当。 著書に『明るい窓:風景表現の近代』、『失楽園:風景表現の近代 1870-1945』(ともに共著)等