公開日:2026年3月11日

「内間安瑆・俊子展 色を織り、記憶を紡ぐ」(神奈川県立近代美術館 葉山)レポート。日米をまたいで表現を探し続けた、ふたりの半世紀

会期は3月7日〜5月31日

会場風景

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葉山で出会う、戦後美術の新たな一面

神奈川県立近代美術館 葉山で、太平洋をまたいで生きたふたりのアーティストに焦点を当てる展覧会「内間安瑆・俊子展 色を織り、記憶を紡ぐ」が開催されている。会期は5月31日まで。

会場風景

沖縄からアメリカへ渡った両親のもとに生まれた内間安瑆(あんせい、1921〜2000、米国籍)は、少年時代をロサンゼルスで過ごした後、1940年に来日し早稲田大学で建築を学んだ。在学中から油彩画を学び、戦時中も東京に留まり続けた彼は、戦後、恩地孝四郎や棟方志功の版画に深く感銘を受け、木版画の道に進むことになる。1954年に青原俊子と結婚。1959年にアメリカへ帰国してからは、ニューヨークを拠点に制作を継続。1970年代後半には浮世絵版画の技法に基づく「色面織り」の手法を確立し、色彩豊かな「森の屏風」シリーズで国際的な評価を高め、1982年に病に倒れるまで、旺盛な活動を展開した。

いっぽう、中国・大連で育った内間俊子(1918〜2000、旧姓・青原)は、1935年に神戸女学院に入学し、小磯良平のもとで絵画を学んだ。1953年には前衛グループ「デモクラート美術家協会」に参加し、この時期に久保貞次郎や瀧口修造とも知り合う。1956年には女性版画家による「女流版画会」を結成したことを機に、木版画の制作に集中するようになった。1959年、夫・安瑆とともにアメリカへ渡り、1960年代後半からはコラージュやボックス型のアッサンブラージュの制作へと移行。グループが変わるたびに表現媒体を刷新してきたその独自の歩みは、いままさに改めて注目されるべきものだ。

会場風景

版画やコラージュを中心に、ともに生活し、ともに制作を続けてきたふたりの豊かな創作世界を振り返る本展。戦後の激動の時代に、創作だけでなく日米のアーティストや文化人のネットワーク形成にも尽力したふたりの功績を再評価するとともに、イサム・ノグチや長谷川三郎など関連作家の作品も交えることで、戦後美術の新たな一面に光を当てる試みでもある。ここでは、それぞれの章の見どころを紹介していく。

会場風景

版画との出会い、デモクラートの時代

本展では、同じ空間でふたりの作品を並べて見ることができる。最初の展示室は日本時代、第2室以降はニューヨーク時代と、時代を追いながらふたりの歩みが交差するように構成されている。

会場風景

第1章では、ふたりがそれぞれどのようにして版画という表現にたどり着いたかを追う。安瑆はもともと油彩画家として抽象作品を発表していたが、版画の持つ複数制作の可能性に惹かれ、1950年代半ばから木版画へと軸足を移していく。恩地孝四郎の影響を感じさせる抽象的な作風から出発し、紙版などを用いたマルチブロック・プリント(多版材版画)の手法を試みていたこの時期、1957年には棟方志功を思わせる黒く直線的な版を全面に用いた作品群へと大きく転換する。同年の東京国際版画ビエンナーレへの招待出品を皮切りに国際舞台にも活動を広げ、1959年にはサンパウロ・ビエンナーレへ日本代表として臨んだ。

会場風景
内間安瑆 交叉点 1955

また本章では、版画家に転じる以前の安瑆の作品も見ることができる。関西の個人宅に長らく保管され、阪神・淡路大震災をも経て残された油彩絵画《親密なる会話》(1953)が、息子の協力によって発見され、1950年代の発表以来初めて公開される。

内間安瑆 親密なる会話 1953

いっぽう、俊子の道筋は、安瑆とは異なる文脈から始まる。デモクラート美術家協会での活動を通じて有機的な抽象絵画を発表するかたわら、1954年には評論家・久保貞次郎の依頼により版画集『スフィンクス』の制作に携わり、これが俊子の最初の版画作品となった。1956年に女流版画会を結成して以降は木版画の制作に集中し、安瑆とともに渡米した1959年以降は同会の海外展の開催にも貢献した。

内間俊子 オルゴール 1955
会場風景より、女流版画会の関連資料

表現の探究と、日米芸術家ネットワーク

ニューヨークに移った安瑆は、1961年にアメリカでの初個展を開催し、以降国内外の版画展への出品を重ねていく。この時代の作品は当時の抽象表現主義の潮流と呼応するもので、複数の版と抑制された色調を重ねることで、静謐な緊張感をはらんだ抽象空間を構成している。1970年のヴェネチア・ビエンナーレにはアメリカ代表として参加し、国際的な評価を確立した。

内間安瑆 Misty Morn [霧の朝] 1964

本章ではさらに、安瑆と俊子が日米の芸術家ネットワークにおいて果たした役割にも光を当てる。安瑆は1950年代から通訳の仕事を通じてイサム・ノグチや長谷川三郎と交流を深め、渡米後も猪熊弦一郎や吉田千鶴子ら日米のアーティストと家族ぐるみで付き合った。日本人アーティストの渡航を多方面から支援するなど、ふたりが日米の美術交流に果たした貢献は大きい。展示されている関連作家の作品の多くは安瑆・俊子の旧蔵品であり、その親密な交流の証でもある。

会場風景より、左は猪熊弦一郎、右は棟方志功の作品

記憶を紡ぐコラージュと、色を織る「森の屏風」

1966年に女流版画会が解散して以降、俊子は次第に版画から離れ、コラージュとアッサンブラージュの制作へと向かっていく。ポストカードや写真、楽譜の切れ端などを紙やボードに貼りパステルで描画を施した平面のコラージュと、アンティークの玩具やドライフラワー、貝殻などを箱の中に構成した立体作品を並行して制作した。身近な物に個人的な記憶を重ねながら紡がれるこれらの作品には、俊子の人生そのものが凝縮されているようだ。1982年に安瑆が脳卒中で倒れてからも介護と制作を両立させ、「時間と体力の許す限り、クリエイティブな仕事は続けたい」という言葉通り、晩年まで発表を続けた(*1)。

会場風景
内間俊子 Anju Baby 1960 [安樹ベイビー 1960] 1968-1970頃

いっぽう、安瑆は1977年ごろから「色面織り」と名付けた独自の手法の探究を深めた。色面のモザイクで画面全体を構成し、色の対比によって奥行きや光のトーンを表現するこの手法は、ニューヨーク北部郊外のシュラブ・オークにアトリエを構えてから「森の屏風」シリーズとして結実する。

木々のあいだで刻々と変化する光、季節や天気によって移ろう彩り。8枚の版木に45回もの摺りを重ねて生み出されたこの連作は、安瑆の集大成となった。病に倒れて以降、2000年に没するまで制作を再開することは叶わなかった。本展のクライマックスを飾る最終室には本シリーズの屏風群が一堂に並び、一日の時間の流れと四季の移ろいを静かに体感させる空間となっている。

会場風景
会場風景

なお本展では、版木や道具の展示を交えて安瑆の木版画制作の工程も丁寧に紹介している。版画という技法をより身近に感じながら作品と向き合える、工夫された構成だ。葉山の海を望む同館で、ふたりが紡いだ色と記憶の世界に身を委ねてみてほしい。

会場風景

*1——『ニューヨーク在住四十年の物語』(2001)青原照幸発行、63〜64頁

灰咲光那(編集部)

灰咲光那(編集部)

はいさき・ありな 「Tokyo Art Beat」編集部。慶應義塾大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。研究分野はアートベース・リサーチ、パフォーマティブ社会学、映像社会学。