会場風景より、田中功起《可傷的な歴史(ロードムービー)》(2018)
今年2月に全館リニューアルオープンを果たした横浜美術館。12月6日にリニューアルオープン記念展の最後を締めくくる展覧会「いつもとなりにいるから 日本と韓国、アートの80年」が開幕した。会期は2026年3月22日まで。
本展は、1965年の日韓国交正常化から60年となる節目に合わせ、韓国国立現代美術館との約3年間のリサーチと準備期間を経て実現した。地理的にも文化的にも近しい隣国である日本と韓国の関係性を、両国のアートを通じて新たに発見することを試みる。
展覧会は全5章構成。韓国国立現代美術館の所蔵品から来日する優品19点や、本展のための新作を含む約160点の作品を通じて、1945年以降の日韓美術の関係性をひもといていく。担当学芸員である日比野民蓉(横浜美術館主任学芸員)の解説とともに、各章を見ていこう。

1945年の日本の敗戦により、朝鮮半島は植民地支配から解放される。しかし南北分断を経て、日本と大韓民国の国交が正常化する1965年まで、約20年にわたり正式な国交が結ばれていない時期が続いた。
日本統治時代、朝鮮半島の人々は日本国籍になっていた。しかし1952年のサンフランシスコ講和条約発効により日本国籍を喪失し、「朝鮮籍」として無国籍状態となるか、大韓民国の国籍を取得するか、日本に帰化するか、という選択を迫られることになる。第1章は、そうした時代を生きた在日コリアン一世が描いた日常の生活、故国の分断、民族の離別といったテーマの作品に焦点を当てる。

注目すべきは、日韓両国で近年再評価が進む曺良奎(チョ・ヤンギュ)だ。東京国立近代美術館の《密閉せる倉庫》(1957)と宮城県美術館の《マンホールB》(1959)が一堂に会し、韓国国立現代美術館からは初期ドローイング《人物》(1953)も来日を果たした。「曺良奎自身が日本で日雇い労働者として労働者階級の生活を送り、そうした生活の実感をもとに絵を描いた作家だ」と日比野は解説する。


彼はまた、1959年12月から始まった帰国事業で朝鮮民主主義人民共和国へ渡った作家のひとりでもある。1960年以降はしばらくは日本の知人と交わした手紙や共和国での活動が確認されているが、1968年以降の足跡は不明のままだ。並ぶ作品からは、当時の時代と生活が静かに浮かび上がってくる。

本章ではまた、この時代を直接経験していない現代作家の作品も展示されている。フォトジャーナリストの林典子は、帰国事業で朝鮮民主主義人民共和国に渡った日本人妻たちへの取材をもとにした《sawasawato》(2013〜)を発表。いっぽう、韓国の映像作家ナム・ファヨンは、植民地時代に活躍した舞踊家・崔承喜と、1960年代に日本で大流行したフォークソング「イムジン河」を題材にしたふたつの映像作品を展開している。

次の章に進む前に、ホワイエでは世界的ヴィデオアーティスト、ナム・ジュン・パイク(白南準)と日本人作家に焦点を当てるエリアが用意されている。
パイクは日本統治下の京城(現在のソウル)に生まれ、繊維会社を営む裕福な家庭に育った。父の仕事の関係から当時非常に入手の難しかったパスポートを所持しており、1950年に起こった朝鮮戦争を逃れて、家族とともに兄のいた日本に渡る。東京大学で美学美術史学を学び、1956年にはドイツに渡ってフルクサスの作家たちと出会い、芸術家としてのキャリアを始動させた。

しかし、1963年にパイクは放送技術を学ぶために再び来日する。わずか1年の滞在だったが、「その後の人生に欠かすことのできない人物との出会いが、その1年間のなかにいくつかも起こる」と解説する日比野。生涯のパートナーとなるヴィデオアーティスト・久保田成子、そしてその後のヴィデオインスタレーションに不可欠なエンジニア・阿部修也との出会いが、この1年間に実現した。会場には久保田成子の作品2点と、1986年に東京・ソウル・ニューヨークを通信衛星で結んだ《バイバイ・キップリング》(1986)が展示されている。

1965年、日本は朝鮮半島の南側である大韓民国とのみ国交を正式に樹立し、それまで人や物の公式な移動が難しかった両国間に一気に交通が開けた。以後、日本では同時代の韓国アートを紹介する展覧会が規模の大小を問わず数多く開催されるようになり、韓国でも同様の動きが起こっていく。第3章では、1960年代後半から80年代を中心に、両国の現代アートがどのように相手の国に紹介されたのかをたどる。

特筆すべきは、1968年に東京国立近代美術館で開催された「韓国現代絵画展」だ。国交正常化を記念して企画され、日本の国立美術館で初めて同時代の韓国絵画の状況が大きく取り上げられた。「この展覧会で、いま世界的なアーティストとして名前の知られている李禹煥と、近年韓国の単色画として世界的な注目を浴びている朴栖甫が初めて出会うことになる」と日比野。ふたりはここから、韓国のアートを日本のみならず世界に示していく重要な役割を果たすことになる。


1975年には、銀座の東京画廊で「韓国・五人の作家 五つのヒンセク〈白〉」展が開催された。東京画廊と韓国の明東画廊が主導し、両国の美術批評家である中原佑介と李逸が加わって実現した本展は、1970年代初めから紡いできた交流のひとつの成果だった。

当時の韓国絵画を「白」というキーワードで紹介した本展は、日本の植民地時代に柳宗悦が白衣に注目しながら、朝鮮の美を「悲哀の美」と表現したこととも絡めて、のちに様々な議論を呼ぶことになる。しかし、1973年に中原佑介が初めて韓国を訪れ、2度の訪問で作家のアトリエを巡るなど、国交正常化後に日韓の美術関係者が両国を行き来しながらかたち作られた、日韓関係史における初期の重要な展覧会でもある。

いっぽう、1979年の「第5回大邱現代美術祭」は、日韓の作家が初めて大規模に共同制作・発表した場だ。いままでは韓国の作家だけを日本で紹介した展覧会が多かったが、日韓の作家が大規模な展覧の場所で一緒に制作をする、あるいは作品を発表する場として、「第5回大邱現代美術祭」が挙げられる。


大きな展示スペースの床には、この芸術祭に参加したポストもの派の作家・海老塚耕一の新作《Correspond-1977年7月 大邱の余韻》(2024)が出品されている。タイトルに「1977年」とあるのは、本祭の開催年ではなく、横浜・鶴見区出身の海老塚が高駿石の自叙伝『越境一朝鮮人・私の記録一』を読んで衝撃を受けた年だという。本作は、「第5回大邱現代美術祭」参加のために初めて訪れた韓国で、オンドルに使われる社版紙にひかれ入手したものを、約半世紀のちに素材としたものだ。

そして1980年代に入ると、韓国でも日本の同時代美術を紹介する大規模展が開かれ始める。たとえば、1981年11月にソウルの韓国文化芸術振興院美術館で「日本現代美術展—70年代日本美術の動向」が開催された。日韓の国交回復後、両国の公的機関が初めてタッグを組んで計画された本展は、韓国で日本の現代美術を大規模に紹介する最初の例となった。

出品作家には斎藤義重、山口長男、高松次郎、吉田克朗、小清水漸、辰野登恵子など世代の異なる46人が名を連ねた。李禹煥もまた、日本美術を代表する作家として韓国に逆輸入されるかたちで紹介された。本章で展示されている菅木志雄と彦坂尚嘉の作品は、いずれも1981年の本展に実際に出品されたものだ。

そして2年後の1983年には、東京都美術館をはじめとする5都市の美術館で「韓国現代美術展—70年代後半・ひとつの様相」が開催され、両国の現代アートがともに展覧される時代が本格的に幕を開けた。

第4章は1990年代以降を扱う。1994年に光州ビエンナーレが始まり、2001年には横浜トリエンナーレが開幕するなど、グローバル化の波の中で新世代の作家たちが台頭した時代だ。
「1945年の日本植民地下においては、朝鮮半島の美術家が西洋美術、あるいは最先端の美術を学ぶ場所というのは主に日本であって、朝鮮半島から日本への美術の留学生は非常に多くいたが、日本から韓国への美術留学はその後もなかなか存在していなかった」と日比野は語る。

その流れを変えたのが、1990年に韓国政府の国費留学生として美術大学の名門・弘益大学大学院に入学した中村政人だ。同じ弘益大学出身で、現在では韓国を代表するアーティストとなったチェ・ジョンファとイ・ブルらは、1987年に「ミュージアム」というグループを結成していた。中村はこのグループのメンバーを中心に、当時のソウルの美術界や同世代のアーティストたちとつながりを持つようになる。
1992年、国費留学生活を終えた中村は、東京藝術大学の同窓生で美大受験予備校の同僚でもあった村上隆と「中村と村上」展をソウルで企画する。これは中村が実施したアンケートで、「中村」と「村上」という日本人の姓が、当時の韓国の人々にとって「不快な気分を感じる名前」の1位と2位であるという結果に着想を得たものだった。実際のアンケートも会場入り口に展示されている。


同じ空間には村上の1990年代初期作品も多く展示されている。たとえば《R.P.(ランドセル・プロジェクト)》(1991)は、日本の小学生にとって身近なランドセルを題材にした作品だ。ランドセルはもともと幕末にヨーロッパから伝わった軍用の背のうがルーツで、学習院が子供の通学鞄としてリデザインして普及した。村上はこの作品を通じて、何気ない日常のアイテムに潜む軍国主義や植民地主義の痕跡を浮かび上がらせている。
韓国で長らく続いた軍事独裁政権は、民衆の力により1987年に終わりを迎えた。民主化に連帯する動きは国外のアーティストにも広がり、アートと社会の問題がわかちがたく結びついた作品が生まれていく。見過ごされがちな社会の問題を提起することは、いまではアートの大切な役割のひとつだ。展覧会の最後となる本章は、現在、そして未来を「ともに生きる」ための気づきを作品から見つけてほしいという思いで構成されている。

在日コリアン2世のパートナーを持つ高嶺格は、ふたりの結婚式を記録した作品《Baby Insa-dong》(2004)を出品。結婚式の写真を取り囲むように印字された高嶺のテキストには、それまで会うことを避けていたパートナーのアボジ(父親)とどのように向き合えるのかという葛藤が記されている。


《突然、目の前がひらけて》(2015)は、武蔵野美術大学と朝鮮大学校という塀を隔てて隣り合うふたつの会場を、橋で物理的につないだプロジェクトだ。両校の学生として出会った市川明子、鄭梨愛、土屋美智子、灰原千晶、李晶玉の協働によって実現し、その過程で重ねられた対話は、互いのアイデンティティや歴史観にまで及んだ。居心地の悪さを感じながらも対話のテーブルに座り続けた記録が、このプロジェクトの核である。
いっぽう、田中功起の映像作品《可傷的な歴史(ロードムービー)》(2018)では、在日コリアン3世のウヒと日系アメリカ人にルーツを持つスイス人のクリスチャンが、日本各地を移動しながら対話を重ねる。ふたりは在日コリアンに対する差別の歴史を学び、実際にそれが起きた場所を訪ね、やがてお互いの立場や背景を理解し合っていく。

日本と韓国、80年にわたるアートの交差を丁寧にたどる本展。2026年5月から韓国の国立現代美術館果川でも開催予定。隣国との関係を見つめ直すきっかけとして、ぜひ足を運んでほしい。
灰咲光那(編集部)
灰咲光那(編集部)