川田知志 結構のテクトニクス 「アートサイト名古屋城2025」展示風景 撮影:ToLoLo studio
史跡・名古屋城を舞台に、「保存と活用」の視点から歴史と現在の関係を問い直す「アートサイト名古屋城 2025 結構のテクトニクス」。3年目となる今年のテーマは「結構のテクトニクス」。建築構造に宿る美学と、“善美を尽くして物を作る意”という「結構」の精神を手がかりに、名古屋城が受け継いできた技術と表現を現代へ結び直す。
このテーマをより深い文脈へ導くために、愛知県陶磁美術館学芸員であり、国際芸術祭「あいち2025」のキュレーターを務めた入澤聖明が、地域の文化史と素材研究の視点から本プロジェクトを読み解いた。【Tokyo Art Beat】
今回で3回目を迎える本プロジェクトでは「保存」というテーマのもと、美術家の川田知志(以下、川田)がフレスコ壁画の視点から、歴史的建造物や文化財を再解釈し、名古屋城の御深井丸に文化的・時空間的介入を実践した。ここでいう「保存」とは、名古屋城本丸御殿で同時進行している障壁画の保存プロジェクトとは異なるニュアンスをもつ。本丸御殿での保存事業では、壁画の物理的劣化を防ぐだけでなく、復元も含め、原状をそのまま未来へと残していくことを目的としている。それに対して川田が今回試みる「保存」は、場所の記憶や文化的地層を引き剥がし、別の時間・空間のなかに再配置することで、新たな文脈や意味を生成する行為である。つまり前者が物理的・科学的な視点を主軸とした保存であるのに対し、川田は文化的・時間的な再解釈を通じた保存を探求したと位置付けられる。


そもそも川田はフレスコ壁画の技法を基盤としながら、現代における「壁画とは何か」という根源的な問いを、様々な試みを通して継続してきた作家である。その活動のなかでもひとつの大きな軸となるのが、古典的な壁画の技法“ストラッポ”を援用した「移し」という行為の多角的な再考であり、時には「写し」という行為の再考も含めた創造として展開してきた。川田はこの技法をたんなる壁画の移動や、あるいは本来的な壁画保存のための技法ではなく、「場所の記憶を引き剥がし、別の場所へ運ぶプロセス」として実践している。この点において、技法は素材的処理にとどまらず、空間と時間の再編へと寄与する創造的な行為へと転化しているといえよう。


本プロジェクトでは、川田の「写し」に対するまなざしが明瞭なかたちでうかがえる。彼はまず、本丸御殿に現存する障壁画を対象として、その建築的構造や空間構成、そして障壁画の内容を丹念に読み取った。そのうえで、フレスコ技法による独自の解釈をともなった再創造としての壁画を制作し、さらにその絵をストラッポによって寒冷紗へと写したのである。このプロセスは、たんなるコピーや復元ではなく、日本の工芸における「写し」の概念にも通底する思考が垣間見える。日本の工芸における「写し」とは、本歌の美意識や思想を深く理解したうえで、写し手が自身の技術に基づいて再創造する行為である。つまり写しにおける重要な価値とは、本歌への理解の深さ、現代的な視点、技法の深化であるが、今回の川田の試みにおいてもそれらが読み取れるのである。

そして、寒冷紗に転写された壁画は、軽やかな枠組みをまとって御深井丸へと運ばれ、そこで本丸御殿が空間となって再び立ち上げられた。これは、障壁画を本丸御殿という場から切り離し、別の場所へと「移し」、その場で新たに意味を生成する川田の挑戦的な試みの核心が、創造性をもって可視化されたといえよう。換言すれば、御深井丸という別の歴史層の上に、川田は“もうひとつの本丸御殿”を、障壁画の影として、あるいは記憶の断片として浮かび上がらせたのである。さらに注目すべきは、川田が本丸御殿の柱の位置に、名古屋城の御庭焼として知られる御深井焼に着想を得た陶板を、あたかも基礎石のように配置した点である。御深井焼とは、厳密に言えば江戸初期に尾張藩のもとで培われた独自の陶磁文化で、名古屋城の歴史を語るうえで欠かすことのできない文化的地層である。川田は陶板をこの陶磁の系譜に重ね合わせつつ、壁画の写しの足元に配置した。この行為は、ただ柱の位置取りという意味だけではなく、かつてここにあった文化が、現在の空間を見えないかたちで支えているという名古屋城の文化構造そのものを顕在化しているようでもあった。


さて、今回の「テクトニクス」というタイトルは、もともと建築用語から引用されたものであるが、面白いことに地質学においても用いられている。その場合の「テクトニクス」とは、自然現象に起因する地殻変動や地形形成を意味するという。地質学におけるテクトニクスが、深層の地殻を押し上げ、過去の堆積物が断層として再び地表に姿を現すように、川田知志の「写し」と「移し」の実践は、まさに名古屋城に積み重ねられてきた文化的地層を揺り動かし、隆起させるような行為であったといえるのではないか。名古屋城の過去の積層は、川田の手によって再び作品として結構し(=組み立てられ)、鑑賞者の目に触れる新たな断層の風景として現れたのである。私たちはその風景に触れることで、歴史を再び読み直し、異なる視点からの「保存」に向き合うまたとない機会を得たのであった。
