公開日:2026年1月13日

【インタビュー】日系アメリカ人アーティスト、キャリー・ヤマオカが語る。カウンターナラティヴを可視化すること、クィア女性コレクティヴでの抵抗の実践

「六本木クロッシング2025展:時間は過ぎ去る わたしたちは永遠」(森美術館)に出展中の日系アメリカ人アーティスト。日本で思春期を過ごした生い立ちをはじめ、写真技術や樹脂を用いた表現、そして創設メンバーとして関わってきたクィア女性コレクティヴ「fierce pussy」の活動までを聞く(撮影:中島良平)

キャリー・ヤマオカ

森美術館で開催されている「六本木クロッシング2025展:時間は過ぎ去る わたしたちは永遠」(2025年12月3日~3月29日)に出展中のキャリー・ヤマオカ。1957年にニューヨークで生まれ、現在も同地を拠点に活動。日本に暮らしたこともある日系アメリカ人アーティストだ。昨年11月には、京都で開催された「Art Collaboration Kyoto」でも作品が展示され、時期を同じくして曼殊院門跡という寺院を会場に「Inside Out/Outside In」と題する日本で初となる個展も開催した。偶然性を取り入れながら、写真や立体、インスタレーションなど技法を限定することなく制作を続ける彼女に、そのライフヒストリーから表現についてまで話を聞いた。

中古カメラで写した波の写真から始まった表現者としてのキャリア

──曼殊院門跡で開催された「Inside Out/Outside In」はとても美しい展示で、寺の空間と作品との関係が印象的でした。日本文化からの影響なども伺いたいのですが、まずはこれまでのキャリアからお聞きしたいと思います。

キャリー・ヤマオカ(以下、ヤマオカ) 私が生まれたのはニューヨークの郊外です。父は日系2世で、母は日本とアメリカのミックスでした。中流からアッパー・ミドルクラスのエリアで、そこに暮らす有色人種は私たちの家族だけでした。あとはすべて白人。黒人もアジア人もユダヤ人もいませんでした。家族にとって唯一の日系アメリカ人の知り合いが、家具デザイナーのジョージ・ナカシマ一家でした。両親ととても仲が良く、私がアートに触れる最初の機会が、ジョージ・ナカシマさんの創作でした。

──いきなりすごいエピソードです!

ヤマオカ ペンシルベニアのナカシマさんのお宅にはよくお邪魔していました。それと、私の兄は10歳上で彼もアーティストだったのですが、私が7〜8歳の頃からよくニューヨーク近代美術館やメトロポリタン美術館に連れて行ってくれて、クリスマスにはオリンパスの中古レンジファインダーカメラをプレゼントしてくれました。その頃に両親が離婚し、兄と8歳上の姉と私は、母とともにニューヨークに引っ越したのですが、そのすぐ後にポルトガルに旅行に連れて行ってくれたんです。フィルム6本とカメラを持って行き、夢中になって海で波打ち際ばかりを撮影しました。

ニューヨークに帰ってきてドラッグストアで現像に出して、1週間か2週間経って取りに行ったら、たしか150ドル。当時はすごい金額だったんです。そんなお金はないので、母に頼んだら母も金額に驚きながら「いい写真を期待してる」って写真代を出してくれたんですね。それで写真を持ち帰ったら、フィルム6本分のうち8割が波の写真。みんなに笑われて本当に恥ずかしかった(笑)。そのときに写真を見て悟ったのは、カメラは自分が見たままを写真にしてくれるわけではないということ。アーティストとして、とても重要な教訓になりました。

「六本木クロッシング2025展:時間は過ぎ去る わたしたちは永遠」会場風景より、キャリー・ヤマオカの展示

戦時中にアメリカで囚われた祖父の存在と日本での生活

──最初に取り組んだ表現が写真だったんですね。

ヤマオカ 高校生になると、撮影と暗室作業にのめり込みました。フィルムを現像し、暗室でプリントするとき、印画紙を現像液に浸けると白い画面にイメージが浮かび上がってくるんですね。まだイメージがぼんやりと出てきたばかりで認識しきれないような状態だと、記憶が揺さぶられるような感覚があって、その瞬間が本当に魅惑的なんです。

──そのとき住んでいたのはニューヨークですか。

ヤマオカ そのときは東京に住んでいました。12歳から17歳まで東京で暮らしたのですが、きっかけは、母が祖父のそばで暮らしたいと考えたからです。第二次世界大戦中、日本人である祖父はアメリカに住んでいました。日本企業の社員として20年ほどアメリカに駐在していて、アメリカ人女性と結婚していました。しかし戦時中にFBIに捕まり、拘留されてしまいました。それから東京に送還されたのですが、空襲もあり、母は祖父が生きているのかどうかもなかなか知ることができなかった。1945年の終戦時に祖父が東京で暮らしており、それ以来アメリカに戻っていないということがわかったとき、母は父のそばで過ごすことを決めて、1970年に私を連れて引っ越したのです。

キャリー・ヤマオカ

──思春期のとても重要な時期を日本で暮らしたことは、あなたのキャリアにどのような影響を与えましたか。

ヤマオカ 祖父の日本美術との向き合い方からは、とても大きな影響を受けました。彼は書や陶芸を愛していて、日本庭園のこともよく知っていたので、そうした日本のアートのことを色々と教えてくれました。私は日本文化のことを何も知らなかったので、大きな刺激を受けました。

中学から高校にかけて私は写真に夢中でしたが、16歳の頃、自分があまりに長く暗室で過ごしているのは良くないのではないかと考えるようになりました。もっと外の世界を知るべきではないかと。それで一旦写真とは距離を置き、陶芸に触れました。アーティストになろうと考えるようになったのは、16歳か17歳の頃です。高校を卒業してアメリカに戻り、コネティカット州のウェズリアン大学に入りました。最初は彫刻を学びましたが、絵画に興味を持ち、抽象絵画を手がけるようになりました。

アメリカの風景に対するカウンターナラティヴを写し出す

──今回の「六本木クロッシング2025展:時間は過ぎ去る わたしたちは永遠」に出品されている《群島(2019)》は、カメラを使わずにイメージを作り出すフォトグラムの手法を用いて、テキストの表現を行った過去の作品を撮影し、デジタルプリントした作品です。これは、写真作品というよりも抽象絵画の延長なんですね。

ヤマオカ 最初に作品にテキストを用いるようになったのは80年代で、古いタイプライターの使い終えたインクリボンを集め始めたことがきっかけでした。大学を出てからフリーランスで雑誌の仕事をしていて、使用済みのタイプライターのインクリボンに興味を持ったんです。タイプライターで文字を打って修正すると、修正用のリボンにはその跡が印字されます。それを集めて回文を作ったり、逆さ言葉を作ったりして絵として表現したのが始まりでした。

《群島(2019)》は2019年に発表したデジタルプリントの作品ですが、もとになったフォトグラムの作品(《群島》)の制作を開始したのは90年代前半です。テキストを絵画と同じように扱うのは、日本の書からの影響もあります。漢字は言葉であり、書はヴィジュアル表現です。意味を表すものであり、同時に絵でもある。そこに興味を持ち、テキストを絵の表現に用いることになりました。

キャリー・ヤマオカ 群島(2019) 2019

──《群島》では、Aからアルファベット順に23点のフォトグラム作品が並び、そこには現存するか、もしくは歴史上の拘禁施設の所在地の地名、もしくはその頭文字が印字されています。どのような経緯で90年代にこの作品の制作を始めたのですか。

ヤマオカ この作品は、テキストを用いた最後の作品です。90年代前半、ニューヨークではエイズの感染が劇的に増加していました。賑やかなニューヨークの裏側には、エイズ禍という闇がある。そこで私は隔離施設──病院や強制収容所、監獄──がある(かつてあった)川や山、森の名に由来する土地の名前をリサーチしました。そして、それをアセテートにプリントしてネガの代わりに用い、過剰露光やソラリゼーション、ブリーチなどの技法を駆使して、引き伸ばし機で印画紙にプリントしたのがこの作品の始まりです。

アルファベットが並んだ地名は美しい響きを持っているのに、その機能を考えると美しい場所ではない。写真ではそうした場所の本当の姿をとらえきれないのではないかと思ったんです。実際、アンセル・アダムスやドロシア・ラングはマンザナー強制収容所を訪れて写真を撮っていますが、それらを見ても、あの場所がなんであったのかや、そこでの経験を写真で本当にとらえることはできないと感じました。だから写真を使わず、場所の名前を使いたいと思いました。それが91年に制作したアナログ版の《群島》で、オリジナルは18枚のパネルで構成されていました。

作品を制作した90年代前半当時は、作品を見せてもキュレーターやギャラリストからほとんど興味を持たれることはありませんでしたが、私は好きな作品だったので、新しいデジタルカメラを買うたびにこの作品を記録するために撮影していました。そして、トランプ政権が生まれた際にこの作品に立ち帰り、2019年に5点の新しいパネルを加えて初めて作品として発表しました。新たにパネルを加えたのは、移民関税執行局(ICE)の収容施設やネイティブ・アメリカンの文化に由来する地名を出すことで、トランプ政権の移民政策の冷酷さに言及したかったからです。それが、デジタルカメラでフォトグラムを撮影して印画紙に出力した今回の出品作、《群島(2019)》です。

キャリー・ヤマオカ 群島(2019) 2019

──地名と画面はたしかに美しく、しかしその背景には負の歴史がある。ナラティヴとイメージの共存する作品だと感じます。

ヤマオカ たとえば「Heart Mountain(ハートマウンテン)」と書かれた作品があります。第二次世界大戦中に、日系アメリカ人を収容した施設があった地名なのですが、ここにはかつて、ネイティブ・アメリカンが住んでいました。彼らには、そこにそびえる山がバッファローの心臓のように見えて、「Heart Mountain」と名付けたそうです。ネイティブ・アメリカンの人々はその土地を追われてしまったわけですが、アメリカの風景の裏側にあるそうしたカウンターナラティヴ(裏側の物語)にもとても興味があります。エドワード・スタイケンやアンセル・アダムスが撮影したような、壮大でヒロイックな風景の裏側にある物語です。それはつまり、アメリカという神話のカウンターナラティヴだと言えるでしょう。

──作品は23枚の写真で構成されていて、3ヶ所の空白があります。

ヤマオカ 空白はあえて残しておきたいと考えています。まだ名前が付けられていない場所があるはずですし、私たちがまだ知らない場所があるはす。このカウンターナラティヴは現在進行形で、完成することがないものですから。

キャリー・ヤマオカ 群島(2019) 2019

──今回の「六本木クロッシング2025」のテーマのひとつには、時間は直線的ではなく、順序立って進むものとしてだけとらえられるわけではない、という考え方があると思います。時間が非線形的であるという考えについては、どのように思われますか。

ヤマオカ 多くのクィアの人々や、マジョリティによって周縁化されてきた人々は、そのことをとっくに知っていますよね。いままさにアメリカで起きているドナルド・トランプをめぐる状況を見ればわかると思います。彼は時計の針を50年、60年、70年前に戻そうとしているかのようです。35年ほど前に私たちが抗議したり、デモを行ったりしてきた事柄のいくつかが、いまふたたび挑戦されている。コミュニティそのものが揺さぶられています。10年ほど前までは、私たちは「ある程度の前進を遂げた」と思っていたかもしれません。クィアの人々も、有色人種も、少しは前に進んだのだと。でもいまは、すべてが逆戻りしているように感じられます。

時間がまっすぐに進むものではないということは事実ですよね。そして、歴史や時間が、ある望ましいゴールに向かって秩序立って進んでいくものだと考えること自体が危険でもあると思うんです。個人の経験からすれば、そんなふうに物事が進むことは決してないのですから。

エイズ危機のニューヨークで結成したクィア女性アーティストコレクティヴ「fierce pussy」

──この作品を最初に手がけた1990年代前半に、クィア女性アーティストによるコレクティヴ「fierce pussy」を結成しています。その経緯について聞かせてください。

ヤマオカ  「fierce pussy」が結成されたのは1991年ですが、私たちは全員ACT UP(AIDS Coalition to Unleash Power)というアクティヴィスト・グループのメンバーでした。そのACT UPのフロアで、メンバーのひとりであるゾーイ・レナードが、女性やレズビアンたちみんなで集まって、パブリックアート作品を作ろうと呼びかけました。そして、私たちの赤ん坊の頃の写真やクィア女性に向けられる蔑称などのイメージを用いたポスターを作り、ニューヨーク市内中に貼って周りました。

当時はエイズやHIV陽性の人々への差別もひどく、病院でもまともに扱われていない状況で、それに対して声を上げ、ケアをし合うゲイの友人が大勢いました。だからこそ私たちも自分たちのための場所が欲しかった。エイズ禍がきっかけですが、エイズのことだけではなく私たち自身のアイデンティティや私たち固有の何かのための場を持ちたかった。そうしたアクティヴィストのスピリットから「fierce pussy」を結成しました。

──今年もニューヨークで「fierce pussy」の展覧会を行ったように、活動は継続しているのですね。

ヤマオカ 91年にポスターのプロジェクトを行ったときは、とても緩かにつながった大人数のオープンなグループでした。それから93年から94年にかけてが第2期ですが、そのときは、私のパートナーでもあるジョイ・エピサラ、ゾーイ・レナード、ナンシー・ブルックス・ブロディと私の4名でした。94年に、一旦コレクティヴとしての活動は終えることになりました。もちろんそれ以降もみんな友人で、一緒にアクティヴィストとして活動していましたが、共同での制作は一旦終了したんです。

fierce pussyの展覧会「Chapter Eight: arms ache avid aeon: Nancy Brooks Brody / Joy Episalla / Zoe Leonard / Carrie Yamaoka: fierce pussy amplified: Chapter Eight」(Participant Inc., NYC、2025年3月2日〜5月11日)に際して作られたポスター

それから2007年か2008年に、「Printed Matter Bookstore」という本屋をニューヨークで経営していたアーティストであり、「General Idea」というコレクティヴの一員だったAA ブロンソンから、「fierce pussy」の回顧展をしたいと連絡をもらいました。それで4名が集まって回顧展を行ったら、やはり一緒に制作するのは心地よく、再スタートすることにしました。今年展示されたのは、ジョーイ・タンという若手のアーティスト/キュレーターによる企画の一環で、今回がチャプター8。個人の作品とコレクティヴの作品を初めて一緒に展示しました。いまはチャプター9の予定も決まっていて、エキサイティングな展示になると思います。

──「fierce pussy」の活動に対して、若い世代からはどのような反応がありますか。

ヤマオカ クィアのコミュニティにおいて私たちはある種のレジェンドのようになっています。あまりに活動期間が長いので(笑)。私たちは90年代のエイズ禍で結成して、当時の仲間の多くが亡くなっています。当時の仲間たちのスピリットを受け継ぎたいと思いますが、懐古的な活動を続けたいわけではなく、そのスピリットをもって現在の政治や社会状況に反応して表現を続けていきたいと思っています。

コントロールできない瞬間が面白い

──個人での活動とコレクティヴでの活動はどのように棲み分けていますか。

ヤマオカ 私の活動のメインはもちろん、キャリー・ヤマオカというアーティストとして自分のアトリエで制作を行うことです。「fierce pussy」では、それとは異なる筋肉を使って、違う表現を模索したいと考えています。

──アクティヴィストとして社会にメッセージを発信することは、詩や文を書いて文学として表現したり、歌にして音楽で表現したり、様々な手法があります。では、そうしたメッセージの発信をアートで行うことの特性はどのようなものだと考えていますか。

ヤマオカ アートは音楽や文学などよりも、ゆっくり伝わるものだと思います。それと、私たち個人の作品では、それぞれが政治に関わる内容にも触れていますが、直接的に主題に政治をもちこむことはありません。作品のフォルムやプロセスへのアプローチそのものに、政治性が埋め込まれているのです。たとえば今回出展したもうひとつの作品《切り株2》(2024)にも、直接的に訴えたいわけではありませんが、政治的なアイデアが込められています。京都の西芳寺(苔寺)で撮影した作品を化繊のシフォンにプリントした作品です。

キャリー・ヤマオカ 切り株2 2024

高校生の頃に一度行ったことのある苔寺に昨年再び訪れて撮影したのですが、その当時、この木は生きていたのか、すでに切られていたのかと考え始めたことから作品の発想が生まれました。切り株の苔はどのくらいの時間をかけて成長したのかがもはやわからない。そのミステリーに興味を惹かれました。

切り株の作品を何点も手がけていますが、それは自然の再生を表すものでもあるし、そこに自然に対する人間の暴力性を読み取ることもできる。それを撮影し、天然素材であるシルクのシフォンではなく、化学繊維にプリントすることで、自然の美しさと私たちが生きるプラスチックの世界とのコントラストを表現しました。でも作品については、私が声高に叫ばなくても、鑑賞者が疑問をもったり、何かを考えたりするきっかけになればそれで良いと思っています。

──京都といえば、先日、曼殊院門跡で開催された「Inside Out/Outside In」も印象深い展示でした。抽象的な樹脂の作品を中心に構成されていましたね。

ヤマオカ (「六本木クロッシング2025」で展示している作品とは)まるで異なるタイプの作品だと思われることもありますが、私はあまりそう思っていません。写真の考えをもとに、樹脂製の作品の表面もつねに周囲の風景を映し続けるオープンなレンズだと考えて生み出した作品ですし、来場者が会場を歩き、映り込む景色を読み取るというインタラクションによって初めて成立するものだからです。

キャリー・ヤマオカ「Inside Out/Outside In」会場風景
キャリー・ヤマオカ「Inside Out/Outside In」会場風景

──苔寺で発想が生まれ、撮影した《切り株2》と同様に、京都の寺院の景色だからこそ生み出されたインスタレーションだという共通点もあります。

ヤマオカ 17歳の頃に一度、東京近郊の禅寺で瞑想に参加したことがあるのですが、そのときに建築と庭の関係にとても感銘を受けた記憶があります。その感覚で、金属枠とガラスによる窓で内と外を分ける西洋式の建物ではなく、内と外が緩くつながる日本の寺院建築だからこそ生まれる表現を考えて、あのような樹脂の立体作品を会場に並べました。今回は展覧会前の来日が叶わず、設営は私のギャラリストに任せましたが、私個人によって空間をコントロールするのではなく、作品を置き、そこを訪れた人が歩くことで作品が完成する。そのようなアートを目指したのです。

──様々なメディウムを用いて制作を続けていますが、アーティストとしてエキサイティングだと感じるのはどのような瞬間ですか。

ヤマオカ 自分でコントロールできないアクシデントが起きた瞬間や、マテリアルの組み合わせなどによって、想像もできなかった結果が生まれた瞬間です。計算も意図も超えた何かが生まれることが私にとってもっとも刺激的で、そうしたものとの出会いから新しいアイデアが生まれます。そのようなアイデアから、美術館と社会を隔てることなく、壁がなくなってアートと人々がつながる表現を生み出していきたいと思っています。

キャリー・ヤマオカ

キャリー・ヤマオカ
ニューヨークを拠点に活動するヴィジュアル・アーティスト。絵画、ドローイング、写真、彫刻といった幅広いメディアを横断しながら制作を行っている。表面のトポグラフィーや物質性、プロセスへの関心を軸に、かすかにしか知覚できない触覚性や、計画と偶然が連なって作品の帰結を形づくる過程を探求している。
彼女の作品は、化学的な作用/反応の痕跡と、つかの間で不安定な変容の状態のなかから像をとらえようとする欲望とが交差し、鑑賞者を引き込む。これまでに、ICA(フィラデルフィア)、MoMA PS1(ニューヨーク)、ポンピドゥー・センター(パリ)、パレ・ド・トーキョー(パリ)、ヘンリー・アート・ギャラリー(シアトル)、アーティスツ・スペース(ニューヨーク)、ウェクスナー・センター(コロンバス)、レスリー=ローマン美術館(ニューヨーク)、ヴィクトリア&アルバート博物館(ロンドン)、マスMoCAなどで作品を発表してきた。作品は、バッファローAKGアートミュージアム、シカゴ美術館、ダラス美術館、ヘンリー・アート・ギャラリー、ポンピドゥー・センター、サンプリッド財団、ヴィクトリア&アルバート博物館、ホイットニー美術館などに収蔵されている。ジョン・サイモン・グッゲンハイム・フェローシップおよび「Anonymous Was A Woman」を受賞。クィア・アート・コレクティヴ「fierce pussy」の創設メンバーのひとりでもある。

中島良平

中島良平

なかじま・りょうへい ライター。大学ではフランス文学を専攻し、美学校で写真工房を受講。アートやデザインをはじめ、会社経営から地方創生まであらゆる分野のクリエイションの取材に携わる。