テオ・メルシエ 2026 House of Eternity Photo by Alessandro Brasile, courtesy of the Diriyah Biennale Foundation.
今回3回目となる「ディルイーヤ現代美術ビエンナーレ2026(Diriyah Contemporary Art Biennale)」は、過去2回においてアメリカ人で北京拠点のフィリップ・トナリとドイツ人でシンガポール拠点のウテメタバウアーというクロスカルチュラルの西洋人がデイレクターを務めたが、今回ははじめて南・西アジア出身者が担当した。ノラ・ラジアンとサビーフ・アフメド、ふたりの芸術監督のもと、専門性の異なる4人のキュレーターが協働した。

本展は世界を多数の「行進(Procession)」ととらえ、行進がこの地域において関係と生み出してきたことに触れ、「風の動きや交易、移住、追放の流れは、物語、歌、言語の担い手であり、ラジャズのようなリズムや詩形を生み出してきた」としながら、行列という観点から絶え間ない変動の状態のなかにあるつながりと連続性を通して、激しい運動と変化のなかに世界を再考することを提案する。
アフメドはアラブ世界にとくに顕著である視覚芸術、音楽、詩のあいだの相乗効果を活用することで、人々のレジリエンスを増幅させ、希望を育む場を作ることを目指している。しばしば分断的な結果に陥りがちな共同キュレーションの問題を避けるため、本ビエンナーレは地域を分散させ、リサーチの旅を減らし、キュレーターたちの推薦する作家の合議を通して、複数のテーマ(ムーブメント[以下、運動と記す]と呼ばれる)に分類していく過程をとった。

キュラトリアルの方法として、「ソニックなキュレーション」が目指された。「ソニックにキュレーションするとは、関係的にキュレーションすることであり、重なりあうテンポ、シンコペーション、そして中断を許容することであ」り、異なるものが共存するポリフォニー的な共鳴の場の創出である。本展は6つの運動からなる振り付けとして構成された。最初はワデイ・ハニーファで実施された行進『テントをたたんで』であり、ベドウインの伝統を継承しつつも現代的なトラックの列と音楽と詩によって実施された。続いてはホールごとに4つの運動、「分断されたコレオグラフィー」「歌の広間」「集合的観察」「エコーの森」に分かれ、最後にくるのが、会期中展開される音楽と詩の朗読の一連のライブパフォーマンスである。

「ソニックな」キュレーション、個ではなく集合、結果でなくプロセス、モニュメンタルなものでなく微細なものへといったベクトルは、行進などのパフォーマンスでは実現しやすい。だが現実の展示空間においては、ある種の雰囲気を作りだすことはできるが、しばしば離散的で曖昧になり、フォームやコンテンツがとらえ難くなってしまうという危険を孕んでいる。これに対して多様性と差異にひとつのまとまりを与えていく方法としてとられたのが、イタリアのデザイナー、フォルマファンタズマによる会場デザインであった。キュレーターとしても活躍する彼らはヨーロッパの自然史、民俗学博物館などでキュレーションと会場構成を担当している。映像、テキスト、オブジェを視覚、記号、触覚のバランスで配置していくそのスマートさと総合的な美学で高い評価を受けている。会場には彼らがデザインした台座や壁、プラットフォームなどがホールごとに異なった色彩で構成されており、それぞれに統一感を与え、強い存在感を放っていた。このような展覧会において作品間の関係、意味と物理的な関係のマップは重要になる。コンスタレーションが成功している部分と唐突な分断の部分が混在していたが、いたずらに作品が混在近接することなく観客にとっては極めて鑑賞しやすいレイアウトになっていたと言える。

ここでは、過去と現在を接続するためのコレオグラフィーが提示されている。入口で観客を迎えるのは、コソボ出身のペトリット・ハリライによる大規模な色彩豊かなドローイング群である。舞台装置のように幾層にも吊り下げられたそれらは、作家がコソボ戦争時(1998〜99)、難民キャンプで過ごした13歳の頃に描いたドローイングの再現である。のどかな動物や田園風景と、爆破される家屋のイメージが隣り合う構図は、無垢な想像力と暴力的現実が同一平面上で共存する時間の裂け目を可視化している。

ベトナムのタオ・グエン・ファンは、ジュートの茎によって空間を編み上げる。素材同士が触れ合う微かな音は、死者に捧げられた子守歌のように響き、空間全体を緩やかな時間の振動で満たす。その傍らには、戦時下に幾何学的形態を組み合わせる独自の彫刻言語を確立した作家、ディエム・フン・ティへのオマージュが配される。これらはひとつのインスタレーションとしして戦争での喪失を思い返し、芸術を通して記憶や時間をつなぐ試みであった。


また、パレスチナ出身のハゼム・ハーブによる白いガーゼ包帯のインスタレーションは、身体の脆弱性と破壊の痕跡を想起させる。ここでは、映像、イメージ、テキスト、オブジェといった断片が集積され、それらが再び編み直されることで、過去が現在へと召喚される。そのプロセス自体がコレオグラフィーとして構成されたセクションであった。

このセクションでは、声、歌、リズム、言葉が響き合う空間が構想されている。ただしそれはたんなる音的、音楽的体験にとどまらず、場所と言語、記号をめぐる複雑な関係性を浮かび上がらせるものである。音は空間を漂い、同時に歴史的時間の層を横断していく。
インド出身のラジェシュ・チャイテイヤ・ヴァンガドによる絵画は、記号的なモチーフの集積によって詩的かつ圧倒的なコスモロジーを展開する。その後に続くエリアのス・シメの作品は、電子廃材を用いたアサンブラージュでありながら、刺繍やテキスタイルを想起させる触覚的な構造を持つ。さらにフィリピンのパシタ・アバドの絵画では、糸が絡み合う鮮やかな色彩のパターンが、視覚と身体感覚を同時に喚起する。

コロンビアのダニエル・オテロ・トーレスは、大型の木製フレームの内部に彫刻、刺繍されたハンモック、水を満たした容器などを配置し、観客が内部を歩行できる構造を提示する。この建築的なインスタレーションは、アマゾニアをはじめとする多様な地域で活動する環境保護運動への頌歌であり、観客は緩やかな移動のなかで、環境音や音波によるさざなみー水の揺らぎ、静かな気配に導かれる。

いっぽう、カイロで結成された出版プロジェクト「Kayfa ta(how toの意味)」は、アラビア語コンピュータの誕生やデジタル出版をめぐる文化史をアーカイヴとして提示する。ネットカフェなどで生成される周縁的なコンテンツの調査を通じて、それらがいかに主流文化へ影響を与えてきたかを検証するこのプロジェクトが「歌の広間」に置かれている点は、キュレーターが「歌」を音声に限らず、文化的伝達や記号の流通としてとらえていることを示しており示唆的である。

ここでは、世界をどのように知覚し把握するかという、知の枠組みそのものが問い直される。展示はアナログからデジタルまで多様なメディウムにまたがり、それぞれが方法論としての批評性と実効性を提示している。
南アフリカ出身のモシュクワ・ランガによる「Collapsing Guides」シリーズは、地図という制度的装置を撹乱する試みである。プラスチックシート上に大衆文化やニュースのイメージ、テープをコラージュし、その上に大胆なペインティングを重ねることで、秩序化された空間認識を解体し、新たなカトグラフィーの可能性を開く。私的な断片と政治的構造が交差するこの方法は、共同体の人々とともに考えるための視覚的言語として機能している。

ガザ出身のタイズィール・バトニジは、ソーシャルメディアを通じて取得した映像をもとに、それらをぼかし抽象化しながら油彩として再構成する。イメージは距離を取るかのように曖昧化されるが、強い色彩の構成がむしろこの瞬間に起きている現実を鋭く呼び起こす。

チュニジア出身のイスマイル・バフリは、チュニジア独立の日に撮影された一枚の写真を用い、背後から光を当てることでイメージを徐々に浮かび上がらせる。手によってゆっくり遮られる光の動きはコレオグラフィであり、記憶が再び知覚へと転化する過程―「詩的な出現」そのものを演出し、観る者に歴史への再接触を促す。
さらにカトマンズのカラン・シュレスタは、「水」という媒体の概念を拡張する。鈴の音、木彫の浮彫、水墨画、滴り落ちる水滴といった要素が連関し、水がたんなる物質ではなく、伝達と知覚の媒介であることを示唆する。

このセクションは、世界に満ちる「エコー」と「歌」の多声音が集まり、生物的・精神的・技術的なものが交錯する生命の形態が現れている森として表される。入口で迎えるのは、中東を代表するコンセプチュアル・アーティスト、サウジのファイサル・サムラによる巨大な絵画《Immortal Moment》である。重力や衝撃を伴う身体的なアクションによって生成された画面は、内側から崩れ広がるような運動を孕み、「エコー」という現象の物質的比喩として機能している。

エルサルバドル出身のグアダルーペ・マラビージャによるインスタレーションは、奇跡への感謝を示す奉納画「レタブロ」に貝殻や織物を組み合わせ、呪術的な気配を帯びた空間を形成する。ザンビアのノーラン・オズワルド・デニスは、アフリカからアラブ、トルコへと連なる地形に沿って収集した地球の振動データをサウンドとして空間化し、「黒い意識」という概念をシステム的に探究する。

なかでもインドのラクス・メディア・コレクティヴのインスタレーションは際立っている。ガラスドームの下に置かれた肺の彫刻を中心に、療養用ベッドと人の生涯を示す映像が配置される構成は、脆弱な身体とテクノロジーの関係、そしてケアの意味を鋭く問いかける。現代のクリテイカルな生命の状況が、最新のガラスのスクリーンに映し出される鮮やかな高輝度のLED映像に象徴的に投影されていた。
暗がりの空間の対比のなかで、映像がスポットライトの中のオブジェはあたかもネットワークの中のアクターたちのように浮かび上がり、生と非生の境界を曖昧にする。全体としてこの「エコーの森」は、生物的、精神的、技術的な諸要素がヒエラルキーなく共存し、現実とマジカルな領域が思弁的に接続される場として機能していた。非西洋的な世界観と美学が、もっとも濃密かつ効果的に提示されたセクションであったと言えよう。

非西洋圏の作家たちに共通して見出されるのは、物質/非物質を問わず、マテリアルやメディウムに内包された情報量の過剰さと、その複雑な絡まり合いである。それはたんなる表層的な装飾性ではなく、歴史・神話・技術・身体性といった複数のレイヤーが同時に編み込まれた状態として現れる。このような実践は、リサーチベースの思弁的アプローチと、高度に洗練されたクラフトマンシップの融合によって支えられており、従来の美術的評価軸を更新しうる、新たなクライテリアの成熟を示していると言える。
とりわけアラブやアフリカ出身のアーティストに顕著な、アンセスタリズムに根ざしたクラフトマンシップの再解釈は、神話や歴史への回帰と同時に、SF的な未来思考を接続する実践として展開されている。過去と未来が単線的にではなく、複層的に折り重なる時間意識は、グローバルな同時代美術の潮流とも共振している。また、AIアルゴリズムが制作プロセスに組み込まれることで、生成されるイメージやオブジェクトは、しばしば量子論的とも形容しうる複雑性──すなわち、複数の意味や記号が確定せず重ね合わされた状態──を帯びる傾向が強まっている。このような状況は、現代美術展において不可避なものとして受け入れられつつある。

こうした作品群に対する鑑賞体験もまた、従来の一方向的な理解の枠組みから逸脱する。観客は体系的な知識や統一的なヴィジョンを受け取るのではなく、展示空間を歩行し、ときに立ち止まりながら周遊するなかで、自らの感覚と判断によって意味を編成していく。言い換えれば、展覧会はあらかじめ構築されたストーリーを提示する場ではなく、観客自身がコレオグラフするプロセスとして機能している。この点において、本展は一定の成功を収めていると評価できる。

いっぽうで、「行進」というテーマが内包する本来的な運動性──すなわち、変化し続ける過渡的状態や、時間とともに生成される行為・詩・音楽のダイナミズム──を、静的な展示形式においていかに提示しうるかという問題が残る。パフォーマンスは常時実施されていないー展覧会という制度が空間内の固定的配置を前提とする以上、その再現には限界が伴う。したがって問われるべきは、作品や展示が、鑑賞者の内面においてどの程度「動き」を喚起し、時代の風とともに呼吸し続ける思考や感覚の回路を開いたのか、という点である。
本展は、複雑化する世界認識と多層的な時間意識を可視化する試みとして評価されるいっぽうで、その運動性を持続的な経験として内在化させる方法論について、アラブ的な文化の応用展開の可能性についてさらなる検討の余地を示すものであった。
長谷川祐子
長谷川祐子