中村宏 女学生に関する芸術と国家の諸問題 1967-97
基地闘争などを対象にした「ルポルタージュ絵画」で日本の戦後美術に名を刻んだ画家の中村宏が93歳で永眠したのは今年1月8日。その大規模回顧展「中村宏 アナクロニズム(時代錯誤)のその先へ」が、静岡県立美術館で3月15日まで開催されている。企画担当は、同館上席学芸員の川谷承子と植松篤。
1932年に静岡県浜松市に生まれた中村は、50年代半ばに社会的事件の記録と伝達を目的とする「ルポルタージュ絵画」の作家として注目された。その後も、「観念絵画」「観光芸術」「タブロー機械」など社会や美術表現に対する批評性に富んだ独自の方法論を打ち出し、具象絵画の可能性を追求。90歳を目前にして自身の戦争体験に基づく「戦争記憶絵図」の制作を始めるなど、晩年まで精力的に活動した。

生前から準備が進められた本展は、全国の美術館と個人所蔵者から借用した250点を超す絵画と関連資料が一堂に集結。5章構成で70年に及ぶ制作の軌跡を紹介する。中村の回顧展は過去にも開催されたが(2007年の東京都現代美術館・名古屋市美術館、2015年の浜松市美術館など)、初期から最晩年までの代表的作品を網羅する本展は、画家の全体像を総覧できる貴重な場となる。
なお本展タイトルの「アナクロニズム」の言葉は中村が選んだもの。中村は自らを「絵画者」、絵画の物質的側面を強調して「タブロー」と呼ぶなど独自の言語感性を持っていた。担当の川谷は「通常は時代遅れや反時代性を意味するアナクロニズムを、中村さんは肯定的に使っていた。素材や手法の新奇性に価値を置く現代美術のモダニズムに抵抗し、絵画という営為を信じ続ける姿勢を示す言葉だと考えられる」と話す。

第1章「社会へのまなざし」は、初期の自画像や労働画、50年代後半に制作したルポルタージュ絵画が並ぶ。
1951年に上京し日本大学芸術学部に入学した中村は、同年サンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約が締結され、国内の政治・思想の緊張が高まるなか、学生運動に加わった。やがて本格的に絵画制作を始め、前衛美術会のメンバーと出会って左翼芸術運動に関わり、若手の自主連合体である青年美術家連合に参加。労働組合が主導する国鉄・品川駅の職場サークルで絵画指導を行い、鉄道の労働現場と働く人々の姿をリアリズムの手法で描いた。

社会主義リアリズム以外の手法で現実に切り込む方法を模索していた若い美術家たちが始めたのが文学のルポルタージュ(記録)を絵画に応用する試みだった。そのルポルタージュ絵画の名作が、現場での取材に基づく中村の代表作《砂川五番》だ。米軍立川基地の拡張に反対する砂川闘争を主題にした本作は、誇張した透視遠近法や群像表現が劇的な効果を生み、警官と農民が揉みあう前景がせり出すような臨場感を持ち迫ってくる。本作を描いたとき、中村はわずか23歳だった。

中村と同じ日に砂川闘争を取材した毛利ユリ(本名:榑松栄次)が撮影した写真にも注目したい。毛利は日大の同期生で、川谷によると戦後思想に多大な影響を及ぼした吉本隆明に中村を引き合わせたという。ここでは毛利が緊迫した現地を切り取った写真と《砂川五番》を見比べることで、中村が何を抽出し、絵画として再構築したかがわかるだろう。

米軍の駐留が恒常化した政治状況を告発するように、中村は沖縄戦の悲劇から着想した《島》、米軍兵士が薬きょうを拾う日本人を射殺した「ジラード事件」が主題の《基地》《射殺》などを50年代後半に発表。その頃に絵画観の違いから左翼芸術運動を離れ、新聞や資料を用いたコラージュやモンタージュの手法を導入して、現地での取材に依拠することなく、燃え盛る学生運動や安保闘争を主題に幻想性を強めた特異な絵画世界を生み出していく。


中村作品の特徴のひとつとして、映画的表現を絵画に導入したことが挙げられる。とくにセルゲイ・エイゼンシュテインが提唱した異化効果をもたらすモンタージュ理論に衝撃を受け、様々な作品に応用した。1959年の安保改定阻止行動を主題にした《階段にて》では、学生らが突入した国会議事堂の階段、連続する男性用小便器、それを見つめる眼鏡男や首長少女など異質なもの同士を組み合わせ、強い緊迫感を画面に与えている。

中村は、戦後最大規模の政治運動だった1960年の安保闘争に吉本隆明が組織した「六月行動委員会」の一員として参加した。だが新安保条約が国会で自然承認されると、運動と自身の「敗北」と受け止め、作風は内省的に変化した。それまでの社会的絵画と異なる表現を模索するなか、重要な要素として浮上したのが自らの「記憶」だった。

第2章「記憶の中の風景」は、中村が60年代前半に手がけた観念的な風景の作品や、自身の家族を題材にした《四世同堂》などを紹介する。地平線や積乱雲、血のような鮮紅色が目を引く前者は郷里・浜松の三方原台地の景色を参照したと考えられるが、鑑賞者が多様に解釈できる匿名の風景として提示している。《四世同堂》は祖母の遺影を中心に、その銅像や葬儀場面、列席した家族の肖像をアルバムのように並べた。近年取り組んだ、太平洋戦争下で経験した空襲や防空壕の記憶を見つめ直した「戦争記憶絵図」の作品も並ぶ。

近代以降、個人の記憶は絵画の重要な主題になり、表現主義の作家をはじめ多くの画家が描いた。だが中村の記憶の扱い方は、感情の発露としての「表現」と言うよりも、目撃した情報を積み上げ深層に迫る「ルポルタージュ」を思わせる。最晩年の《空襲 1945》などの「戦争記憶絵図」は、恐怖に満ちた自体験を大胆な構図と細部の描写で抉り出し、現代に響く「戦争画」となった。

第3章「セーラー服と蒸気機関車」は、60年代後半以降、中村作品のアイコンとなるセーラー服姿の女学生や金属的な光沢を持つ機関車に焦点を当てる。いずれも自身の記憶に基づく観念的な「記号」だが、同時に通俗的なエロティシズムやフェティシズムを連想させる性質も持つ。これらを中村は「呪物」と呼んで繰り返し描き、鑑賞者の感覚を刺激して解釈を促す装置として用いた。女学生は土俗的気配が漂う「ひとつ目」や骸骨と戯れる姿にするなど強烈なキャラクター造形がなされ、生死や人知、社会規範を超える存在のようにも受け取れる。


日本が高度経済成長を続ける60年代初頭、読売アンデパンダン展などを舞台に「反芸術」の潮流が盛り上がった。そうしたなか、中村は絵画を政治的主張や感覚主義と切り離し、思考の場としてとらえ直す方向へ向かう。1964年に画家の立石紘一(立石タイガー)とともに「観光芸術」を宣言し、観光客が見た風景を対象に視覚や記憶のメカニズムを絵画上で探求した。
この時期の作品に現れる新たな要素が、望遠鏡を通じて拡大され円形に切り取られた「風景」だ。《円環列車・A-望遠鏡列車》は、ひとつ目の女学生集団が望遠鏡で眺める海景が画中画のように描かれる。「(他者が)見たものを見る」という、日常的に生じる視覚の入れ子構造を絵画化したとも言えるだろう。


中村は50年代末から「鑑賞」を美術の根拠に置き、鑑賞者が絵画を見ることで初めて作品の創造性が立ち上がると主張したが、これは当時の日本美術の文脈において先駆的な姿勢だった。第4章「絵画と鑑賞者」には、「見る」行為に強い関心を寄せ続けた中村が、鑑賞者の能動的な視覚体験を促すために創出した多様な作品が展示されている。

富士山の山頂付近と空中分解する旅客機の一部を拡大した絵画と、それを双眼鏡で覗き込むマネキンで構成したインスタレーション《女学生に関する芸術と国家の諸問題》。本作は、「見たものを見る」視覚行為が幾重もの入れ子状になっているが、絵画単体は富士山上空を観光飛行中の英国機が墜落し多数の犠牲者を出した1966年の事故を主題にしている。大惨事さえも「見る」対象に変換し消費する眼差しを意識させられる作品とも言える。

中村は、絵画を通じて鑑賞者の認識に働きかける手法を更新し続けた。70年代に開始した「車窓篇」では、絵画と密接な関係を持つ窓を主役に内・外の構造や時間の可視化を試み、80年代後半に始めた「タブロー機械」は、ストップモーション的な手法や立入禁止表示の黄と黒のストライプ模様を使い絵画のイリュージョン性を問いかけた。2000年代以降、複数の絵画を組み合わせ連想を喚起する「絵図連鎖」を展開するなど、見る者を作品に巻き込む試みは晩年まで続いた。



ラストの第5章「同時代芸術家との交流」は、中村が交流した同時代人を豊富な資料で紹介する。展示されているのは文学者の澁澤龍彦や稲垣足穂、舞踏家の土方巽や芦川羊子ら異彩を放つ顔ぶれで、彼らとの影響関係や協働に大きな刺激を受けたことがわかる。中村が装丁や挿絵を手がけた書籍、ポスター、撮影した映像、講師を務めた「美学校」などの資料も展示され、複数の表現領域と交差しながら絵画の可能性を押し広げていった足どりがうかがえる。

濃密膨大な絵画群を遺して世を去った中村。その存在は今後、日本美術史のなかにどう位置づけられていくのだろうか。担当学芸員の川谷は、次のように語る。
「本展を企画して、あらためて日本戦後美術における中村の重要性を実感した。中村の代表的な作品は各地の美術館に収蔵されるなど、すでに美術館レベルでは高い評価を得ているが、いっぽうで批評や美術史の言説のなかでその仕事は十分語られてきたとは言い難い。本展がさらなる評価が進む契機になればと思う」
また2月12~28日には個展「中村宏 絵画者の軌跡 1953-2025」が銀座のギャラリー58で開催される。こちらでも初公開や50年代の貴重な作品を含む絵画やドローイング、資料を展示する。気になる人は足を運んでほしい。
