三上晴子 Eye-Tracking Informatics 2011/19 撮影:木奥恵三 写真提供:NTTインターコミュニケーション・センター [ICC]
1990年代以降、国内外の「メディア・アート」シーンで活躍しながら、そうしたジャンルの枠組みに収まらない創造性を発揮したアーティストの三上晴子(みかみ・せいこ、1961〜2015)。没後10年となるいま、観客参加型のインタラクティヴ・インスタレーションの大型作品を複数展示する展覧会「知覚の大霊廟をめざして——三上晴子のインタラクティヴ・インスタレーション」が、東京のNTTインターコミュニケーション・センター [ICC] にて2026年3月8日まで開催されている。また、10〜11月には√K Contemporaryにて、三上晴子没後10年追悼展「MIKAMI MEME 2025|三上晴子と創造のミーム」が、四方幸子(キュレーター/批評家、十和田市現代美術館館長)、渡邉朋也(山口情報芸術センター[YCAM]アーキビスト/ドキュメントコーディネーター)の共同キュレーションのもと開催された。
三上晴子とはどんなアーティストだったのか。その独自性と重要性を、現代の視点から改めて語りあい、作品の魅力や本展の見どころを解説する座談会を実施。1990年代から三上と並走し作品を実現させてきた四方幸子、三上作品の委嘱元であるYCAMで作品の修復・一部再制作に取り組んできた渡邉朋也、そして本展キュレーターの指吸保子(NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]学芸員)の3名に、話を聞いた。【Tokyo Art Beat】

*本展のレポートはこちら
——三上晴子さん(1961〜2015)は、1980年代半ばに鉄のジャンクを用いた作品で注目された後、90年代にはメディア・アートの領域に大胆に活動を広げました。四方さんはその頃からお仕事をご一緒されてきましたが、三上晴子とはどのような作家だったと振り返りますか?
四方:「三上晴子は三上晴子だった」、そう表現するしかないほど唯一無二の特異なアーティストであり、人物であったと思います。既存のジャンルや慣習、システムの枠には収まらない人で、それは「現代アート」や「メディア・アート」という枠組みにおいても言えます。とくに直観力は鋭く、それを実践につなぐ仕方も含め、本当に稀有な人でした。
テーマとしては、情報戦争や脳、免疫といったモチーフを通し、一貫して「情報」や「境界」の問題を扱った作り手でした。皮膜と被膜といった境界がつねに揺れ動くさまに目を向け、自己と他者、内と外、人間と非人間などがつながるということの問題と可能性を追求した人でした。
そんな彼女にとって重要だったのが、今回、ICCの展示で大きく扱われるインタラクティヴ・インスタレーションです。彼女の作品において、鑑賞者は、周囲の環境やマシンなどを通じて様々なつながりやズレを体験しますが、同時に、その当事者としての自身を俯瞰するような感覚も味わう。そうした二重の自己、分裂と統合が同時に起きているような自己のあり方というのは、彼女が多くの作品で表現した世界観だったと思います。

——今回の展覧会では、タイトルにある「知覚の大霊廟」という言葉も目を惹きます。この言葉はどのような背景をもつのでしょうか?
指吸:この言葉は、2004年にスペインで刊行された作品集に収録され、後に馬定延さんと渡邉さんが和訳された文章(*1)で使われたものです。そのなかで三上さんは、「私が未来のために構想しているのは、知覚に関する全てのプロジェクトをインタラクティヴ・インスタレーションとして展示することである。それは知覚の美術館(あるいは大霊廟)になるであろう」と書いています。
三上さんは自身の作品を説明する際、自分は知覚に興味があるが、その全体を考えるのはあまりに壮大なので、視覚や聴覚などに分け、それぞれにフォーカスした作品を作るのだとたびたび言われているのですが、その複数の作品を集める構想があったのだと思います。
面白いのは、三上さんはほかに「お化け屋敷」という言葉も使っているんですね。これは私の考えですが、三上作品では、現場にいないとわからない空間の変容それ自体が作品の本質になる。つまり、目に見えないものも含めて大事だということを、この言葉で言おうとしたのでないか。今回はそれも踏まえ、「大霊廟」をタイトルとしました。
四方:視覚や聴覚、重力、アルゴリズムによる監視の問題など、不可視の領域も含め、人の身体や精神を規定し、拘束するものを、体験を通して広く問いかけようとしていた人でしたよね。
彼女が特徴的なのは、本人が「耳で視て、鼻で聴いて、眼で触ることが可能」(*2)と書いているように、知覚のオーバーラップ、もしくは絡まり合いに意識を向けていたことです。おそらく、近代以降の分割された知覚や身体感覚への本質的な違和感を持っていたのでしょう。その意味で「知覚の大霊廟」は、彼女にとって自身の存在に関わる切実な問題だったのだと思います。
異なる知覚を扱った代表的なインタラクティヴ・インスタレーションが同じ空間で体験できる今回の展示は、その「知覚の大霊廟」が初めて実感できる場になるかもしれません。

——それでは、本展の作品についてお聞きできればと思います。初めに、《Eye-Tracking Informatics》(2011/19。以下、《ETI》)は、1996年制作の《Molecular Informatics[モレキュラーインフォマティクス]—視線のモルフォロジー》(1996。以下、《Molecular Informatics》)を原型とした作品で、出発点はいちばん古いですね。これはどのような作品なのでしょうか?
指吸:《ETI》は一言で言うと、三上さんが長年追究した「視ることそのものを視る」というコンセプトを体感できる作品です。
体験者はまず、作品用の椅子に座って、特殊なメガネ型のデバイスを装着します。この装置が視線の向きを検知し、正面の映像にその軌跡が反映されることで、自分が視ている行為そのものを視る、という特殊な状況が生まれます。制御しようとしても揺らいでしまう、人の眼の無意識の動きまでも見せてくれる作品ですね。
また、この作品は本来はふたり同時体験ができるのですが、本展ではひとり体験版として展示しています。ひとり版でも、自分とは違うタイミングで体験した人の視線の軌跡が同時に映し出されることで、誰かと視線を交わし合っているような複合的な体験が生まれます。
四方:同作のコンセプトは90年代半ばに遡ります。当時、私は「キヤノン・アートラボ(*3)」で、阿部一直さん(2002〜17年まで山口情報芸術センター[YCAM]のアーティスティック・ディレクター)とともに共同キュレーターとして、アーティストとエンジニアのコラボレーションによるメディア・アートを制作する活動を行っており、ニューヨークにいた三上さんに声をかけたんです。
当時彼女は、台頭してきたインターネットや「バイオインフォマティクス」という最先端の分野に関心を寄せていて、アートラボでは、まずネット上で《Molecular Clinic 1.0 [モレキュラー クリニック]1.0ーon the Internet》(1995)という作品を発表、翌年にキヤノンの視線入力技術を用いた《Molecular Informatics》を制作しました。同作は当初ひとり体験用でしたが、半年後にふたり用になり、自己言及性からコミュニケーションへと体験のあり方がシフトしていきました。コンセプトや体験に加えて、このように作品が展開したのは初めてで、その意味でも忘れがたい作品です。
渡邉:この《Molecular Informatics》は、15年後の2011年にYCAMで再制作されることになります。きっかけには、当時YCAMのテクニカル・ディレクターだった伊藤隆之さんが、ニューヨークで開発に携わっていたオープンソースの視線検出ハードウェア「EyeWriter 2.0」の知見をYCAMに持ち帰ったことがあります。阿部一直さんが、その技術を生かした展示を企画するなか、参加アーティストのひとりとして、三上さんに制作を委嘱。技術環境の変化に伴い「ゼロからつくり直す」ということで、題名が《ETI》になりました。
指吸:同作は2015年に三上さんが亡くなられた後も更新を続け、2019年には多摩美術大学とYCAMの共同研究によりアップデート版が発表されます。今回展示するのはこの最新版です。
——三上さんの作品をみなさんで更新し続けている点も面白いですね。続いて、市川創太さんとのコラボレーション作品《gravicells—重力と抵抗》(2004/10/25)はいかがですか?

指吸:同作でまず特徴的なのは、6m四方のフロアが作品になっており、体験者は何名でもその上に上がれることです。床下の装置により人の重さや動きを感知し、床面に投影された線が等高線のように歪むことで、その位置や重さが視覚化され、また音でも表現される仕組みになっています。
この作品のテーマは、「重力を感じる知覚」です。私たちは普段、自分が動いても空間は変わらず安定したものだ、という意識で生活していますよね。しかしこの作品は、自分やほかの人が動くことで、場そのものが変容していくことを表現しています。三上さんと市川さんは、私たちがいかに重力というものに縛られ、拘束されて生きているのかを改めて感じてもらうための作品だと説明されています。
また、同作にはGPSも組み込まれています。GPSも万有引力の影響下にある存在ですから、そこにいる人と地球との関係だけでなく、人どうし、宇宙衛星との力の関係も含めて、私たちは引力により刻々と変化する環境の下で生きていることを体験していただくための作品になっています。
——大勢の人が上がると、床の線が大きく歪み、視覚的にもインパクトがありますね。
指吸:そうですね。静かに歩くのと、たとえばお子さんが走ったりするのとでは、映像と音の変化の仕方が全く変わってきます。特別なデバイスを着ける必要もなく、エリアに入るだけで誰でも体験できるという意味で、純粋に楽しめる魅力がある作品だと思います。
——《欲望のコード》(2010/17)も、とても迫力のありそうな作品ですね。
指吸:これは2010年にYCAMで制作された大型のインスタレーションで、「蠢く壁面」「多視点を持った触覚的サーチアーム」「巡視する複眼スクリーン」と名付けられた3つの要素から構成されています。
空間に入ると、まず壁一面に無数の小さな装置が並ぶ「蠢く壁面」があります。これがセンサーで人を検知し、一斉に向きを変えて追ってくるんですね。モーター音とともに壁全体に見つめられるようで、かなり威圧感があります。次の空間には、天井から6本の巨大なロボットアームが吊るされていて、これも体験者を執拗に追いかけて撮影し、その映像を床に投影します。
そして最後にあるのが、昆虫の眼のような「複眼スクリーン」です。ここには、先の「蠢く壁面」にあるカメラが撮影した映像や、過去の来場者、世界中のウェブカメラの映像がランダムに映し出されます。
この作品のモチーフとして三上さんが例に挙げていたのは、Amazonなどの「この商品を買った人はこれも買っています」というアルゴリズムです。我々は、欲望をもった機械に監視・分析されているのではないか。機械が見ている「データとしての自分」は、生身の自分とは違うかたちをしているかもしれない。そうした問いを、監視カメラの調整室のような空間で体験させる作品です。
——最後に、無響室での《存在、皮膜、分断された身体》(1997)は現在調査中とのことですね。
指吸:はい。これは1997年のICC開館時に常設展示作品のひとつとして制作委嘱されたものです。視覚を扱う先ほどの《Molecular Informatics》に対し、こちらは聴覚に焦点を当てた作品です。
本来の体験では、観客が無響室で椅子に座って聴診器型の身体内音スコープを当てると、自身の心拍や呼吸音が計測され、立体音響として空間内をぐるぐる回り始めます。普段は体内で鳴る音を、改めて外から聴く。これにより、自分とそれ以外を隔てる皮膜や境界が曖昧になり、自己が空間へ拡張していく感覚を得られる。三上さんはこれを「知覚による建築」と呼んでいました。視覚と違い、自分で遮断することができず、360度に広がる聴覚の特性を扱った作品ですね。

この作品は2000年のフランスでの展示を最後に、25年間眠っていました。今回、再展示に向けて修復を試みましたが、当時のコンピューターが起動せず、プログラムの詳細な挙動を究明できていないことから、体験者の心音を使ったインタラクティヴな完全版の再現は断念しました。代わりに今回は、生前の三上さんの心拍と呼吸音を使ったサウンド・インスタレーション版として展示を行います。このサウンド・インスタレーション版は作品発表当時から用意されていたものですが、三上さん亡きいま、その身体内音を無響室で聴く体験に、制作当時とは違う特別な意味を見出す方もいらっしゃるかもしれません。

——今回、三上さんと縁の深いICCでこのような大規模な展示が行われることの意義、そして企画の意図について改めて聞かせてください。
指吸:ICCは開館前の1995年に三上さんのインターネット作品を展示して以来、長くお付き合いさせていただいてきました。没後10年を迎える今年、四方さんと渡邉さんが企画された「MIKAMI MEME 2025|三上晴子と創造のミーム」(√K Contemporary)を始め、様々な視点から三上さんの活動やその影響に焦点を当てた紹介が複数行われましたが(*4)、そのなかで我々としては、広い空間を要するなど展示のハードルが高いインタラクティヴ・アート作品を展示することでお役に立てればと考えました。
とくに、三上作品を体験したことのない若い世代に、実際に身体で感じてもらい、そこから新しい「ミーム(文化的遺伝子)」を受け取って、次の創造や研究へとつなげていってほしい。そうしたバトンを渡す機会になればと考えています。

——メディア・アートの保存や再展示は一般的に難しいとされますが、とくに三上作品において、YCAMはどのような役割を果たし、どんな難しさに直面してきたのでしょうか。
渡邉:前提として、YCAMにとっても三上さんは非常に重要な存在です。先述の阿部さんの言葉を借りれば、YCAMは2003年の開館時からアーティストとエンジニアが協働する場を目指してきましたが、そのトーンを作ってくれたのが三上さんでした。彼女との協働を通じて、キヤノン・アートラボなどで培われた精神がYCAMにインストールされたと言っても過言ではありません。
三上作品特有の難しさ、あるいは特徴についてですが、面白いことに彼女は指吸さんが冒頭で触れた文章においても、作品というものは完成した固定物ではなく、「コンティニューム(連続体)」だと表明していました。つまり、技術の進化に合わせて不断にアップデートしていくものだとしていたんです。ですから、三上さんが亡くなったからといって、その運動を止めて「ただ保存する」というのは、彼女の作品の本質から見るとむしろ不自然なんですよね。
そこで僕たちは、生前彼女と協働していた方たちとともに、現場での彼女の指示やフィードバックの記憶を頼りに、アップデートを継続してきました。たとえば《ETI》の視線入力装置が使えなくなったときも、「三上さんならどう判断したか」「過去作ではどう改訂していたか」を積み上げ、ご遺族や法律の専門家の協力も得ながら、法的な枠組みや倫理面も慎重に考えながら更新を続けています。作品をただ保管するのではなく、思考を引き継ぎながら更新することには難しさもありますが、「作品」の概念そのものに一石を投じる面もあり、エキサイティングな挑戦だと感じています。
四方:亡くなった作家の作品を、コラボレーターたちが主体となってアップデートし続けるというのは、世界的にも稀有な事例ですよね。それが可能なのは、三上さんに全体をまとめるヴィジョンと、関わる人々の才能を生かす知見と柔軟性があったからこそだと思います。
渡邉:そうですね。三上さんはこうした実験的な状況を生み出してしまう「器」を持ったアーティストでした。YCAMで彼女とコラボレーションした人々によると、彼女は基本的に協働する人にNGを出さない。それは、個々の解釈を尊重し、彼らがイメージしやすいようなヴィジョンを共有できていたからだと思います。
実際、制作に関わっていた市川創太さん、クワクボリョウタさん、濵哲史さん、平川紀道さん、三原聡一郎さんといったクリエイターだけでなく、キヤノンのエンジニアの方々も一様に「人の力を引き出すのがうまかった」って言うんですよね。この、誰もが能力を発揮できる状況を生み出すディレクション能力こそが、三上さんの最大の秘密なんじゃないかとも思います。

——四方さんたちが企画された展示タイトルは「ミーム」と冠していましたが、三上さんは後続世代のアーティストからのリスペクトも厚く、まさに「Artist’s Artist」(アーティストから尊敬されるアーティスト)という印象があります。
四方:2000年から多摩美術大学で教員をしていたのも大きかったですよね。教員になると自身の活動が縮小してしまう作家もいますが、三上さんは驚異的なエネルギーでそれを両立させていました。
彼女は学生をたんに教える対象としてではなく、作品をともにつくるコラボレーターとしても見ていた。実際、彼女の助手だった山川冬樹さんや、スタジオに所属していた毛利悠子さんなども、アーティストになるうえで強く背中を押されたと語っています。本質的な才能を見抜いて対等に関わろうとする姿勢が、多くの後進に影響を与えたのでしょうね。
——渡邉さんも、三上研究室の出身ですね。
渡邉:そうですね。三上さんは「先生」でも「友達」でもない、不思議な存在でした。いまでもあれはなんだったんだろうと考えるんですけど、ひとつ言えるのは、学生を潜在的なクリエイターとして対等かつ真剣に向き合うことに関しては、徹底していたように思います。
何か使える技術とか知識を教えてもらったという記憶がないんですが、印象的だったのは、研究室で誰かと話していると、作業をしていた三上さんがキャスター付きの椅子でスーッと寄ってきて、「25歳までにアトリエを持たなきゃダメ」「30歳までに個展をやらなきゃダメ」と言い残して去っていくこと(笑)。廊下ですれ違いざまに「去年の私のアーティストとしての年収いくらだと思う?」とクイズを出されたこともありました。とにかくアドバイスや提案のすべてが異様に具体的で、いま思えばそうやってプロとして生きるとはどういうことかを教えてくれていた気がします。

——三上さん自身が、作家として独特の歩みをされた方ですよね。
渡邉:ええ。本人は過去を語りたがらない人でしたが、ふとした瞬間、1980年代に大崎の工場跡で飴屋法水さんとアトリエをシェアしていた話や、「Information Weapon」シリーズなど初期の活動の話が出ることがありました。『朝日ジャーナル』での人気連載、筑紫哲也の「新人類の旗手たち」にも取り上げられていて、ある種の時代のアイコンだったわけですが、そのことに嫌気が差してなのか、90年代には海外に拠点を移します。1980年代からサイバーパンクなどアンダーグラウンドなシーンとつながっていましたが、90年代以降はインターネットを通して広がったハッカーカルチャーとも深くつながっていくわけですよね。
四方:とくにロバート・ロンゴや、アメリカ西海岸のSRL(Survival Research Laboratories)など実験的なシーンとは交流がありましたね。あとノイズやインダストリアルミュージックなどを愛聴していて、オルタナティヴな音楽シーンとの交流もバックボーンにあった。もともと美大出身ではなく、独学で作品を突然作り始めた人です。そこに私も共感するのですが、現代美術のメインストリームとは違う場所から出発し、ハッカーカルチャーやカウンターカルチャー、DIYの精神を持ちながら、メディア・アートやアカデミズムの世界へ接続していった。
渡邉:三上さんの独特の「抜け感」やフラットさは、そうした特殊なキャリアパスから来ていたのかもしれません。三原聡一郎さんなどが海外に三上さんの作品の設営に行った際、現地のフェスティバル・ディレクターが自ら「晴子のためなら」と設営を手伝ってくれたというエピソードも聞いたことがあります。世界中にそうした独自のネットワークと信頼関係を築いていたのも、彼女の凄さだと思います。

——三上さんが1980年代から扱ってきた情報の問題は、震災やコロナ禍を経て、メディア環境が激変した2020年代のいまこそ、むしろその切実さを増しているように思います。最後に、三上作品は現代の私たちに何を示唆しているのか、お考えを聞かせてください。
指吸:これまでの話にあったように、三上さんは技術の発展に合わせて作品をアップデートすることに非常に積極的でしたが、いっぽうで、彼女が扱った人間の知覚というものは、そんなに短期間では変わらないものですよね。その意味で、三上さんの作品が投げかけるものというのは、時代が変わっても陳腐化するものではないのだと思います。
《欲望のコード》が扱う監視社会の問題などは、おっしゃる通り、鑑賞者側の実感の強度はより上がっていると思いますが、それはもともとの作品の表現の力という気もします。三上さんは作品を完成させる過程で、情報を極限まで削ぎ落とし、抽象化していた。それが時間を超える作品の強さにつながっているのではないでしょうか。
三上さんはコロナ禍を経験しませんでしたが、1980年代の活動初期から免疫系の問題や情報の問題を鋭く察知していた。彼女が残したものを見ることは、いまの私たちが改めて問題を考えるきっかけをくれるものだと思っています。
渡邉:一連の作品の再制作を始めた当初、三上さんの作品をアクチュアルなものとして維持すべきなのはあと20年くらい、2030年代半ばくらいまでかなと漠然と考えていたんです。その頃にはたとえば監視などの問題は日常に溶け込み、認識ができなくなった結果、社会的なトピックではなくなる。視線検出にしても、それを前提としたサービスが目新しいものではなくなる社会が目の前に来ているように思います。だから、そうした時期が来たら作品としてのアクチュアリティを失い、もしかしたら技術系の博物館にでも入るのだろう、と。でも、最近は思ったよりも長持ちしそうだと感じています。
そこには、いま指吸さんがおっしゃったような予言的とも言える三上さんのヴィジョンもありますし、もうひとつ、三上さんは文章のなかで「テクノロジーとインタラクションする」という表現を使うんです。
普通は、人と人のあいだの相互作用をテクノロジーで拡張すると考えがちですが、彼女はテクノロジーによって人間の知覚が拡張したときにコミュニケーションにおいて生じる変化や、人間とテクノロジーが触れたときに起こる小さな摩擦のようなものに、作品を通じて輪郭を与えるイメージを持っていたように思えます。そう考えると、人間が生身の身体を保持し、また作品で扱っているテクノロジーが破滅的に消え失せることがなければ、作品はもう少しのあいだ、意味があるものとして私たちに示唆を与えてくれるのかなと思います。
四方:彼女は、有機的なものと無機的なもの、人間とテクノロジーを相互に関係し合うものとして見ていましたよね。それは《欲望のコード》のようにディストピア的に見える場合もありますが、毒と薬のように、世界のなかに矛盾を含んだまま成り立っています。そうしたフラットな世界観は、いま見れば、対立ではなく、平和への意志にも見えます。
もうひとつ、現在からの視点という意味では、フェミニズムの観点についても触れておきたいです。三上さん自身はフェミニストを標榜してはいませんでしたが、実践としてフェミニズム的な姿勢を体現していたと思います。当時のフェミニズムの論争には距離を置きつつ、ジェンダーに限らない様々な差異や不均衡を感じとり、そこから抜け出る戦略として、性別や年齢、国籍など作者の属性や特性に縛られない作品や表現を、本人はめざしていました。
インタラクティヴ・アート、つまりメディア・アートに関わったのも同様です。90年代において、メディア・アートはまだ未分化な領域で、注目する人も少なく、しかしだからこそ自由な場所でした。既存の領域に満足できない、ある種の「難民」やハッカーのような人たちが、多様なメディアを創造的、批評的に使いこなすことができる実験の場としてたどり着いたのです。その意味で私は、「メディア・アート」は、境界領域に関わるものだと思っています。
私はそこに惹かれてこの領域に入ったし、三上さんもそうだったと解釈しています。彼女は、人間が作った社会的な非対称性や差別を超えて、人間以外の存在も含めた広い視野で世界と接していた。それは、きっといまの観客にも響くはずだと思います。
取材:2025年11月30日(オンライン)
*1──三上晴子「知覚の美術館/大霊廟に向けて」馬定延・渡邉朋也訳、『SEIKO MIKAMI―三上晴子 記録と記憶』(馬定延・渡邉朋也編、NTT出版、2019)所収。
*2──同上、p8
*3──キヤノン株式会社が1990年から2001年まで運営していた文化支援プログラム。
*4──2025年1月「AWARE: Archives of Women Artists, Research & Exhibitions」(日仏英)にて公開:三上晴子 https://awarewomenartists.com/ artists_japan/%E4%B8%89%E4%B8% 8A-%E6%99%B4%E5%AD%90//「PLANTS/BOTANICAL 三上晴子没後十周年展」2025年4月24日〜27日、会場:iwao gallery、https://iwaogallery. jp/seikomikami//AAC所蔵資料展7「三上晴子アーカイヴ 活動年表資料展」2025年6月23日—7月20日、会場:多摩美術大学アートアーカイヴセンターギャラリー、https: //aac.tamabi.ac.jp/2025/3906. html
四方幸子(しかた・ゆきこ)
美術評論家連盟会長、対話と創造の森アーティスティックディレクター。多摩美術大学・東京造形大学客員教授、武蔵野美術大学・情報科学芸術大学院大学(IAMAS)・京都芸術大学非常勤講師。「情報フロー」というアプローチから諸領域を横断する活動を展開。三上晴子と初個展「滅ビノ新造型」展(1985)で出会い、1990年代には、キヤノン・アートラボの共同キュレーター阿部一直とともに《Molecular Clinic [モレキュラークリニック]1.0ーon the Internet》(1995)、《Molecular Informatics [モレキュラー インフォマティクス]ー視線のモルフォロジー》1996)に関わる。以後も三上作品をキュレーションするとともに、2000年代には多摩美術大学情報デザイン学科スタジオ5で三上、市川創太とともに演習を担当。2015年、三上急逝後「三上晴子と80年代」展を今野裕一と共同キュレーション(parabolica-bis)、2025年「MIKAMI MEME 2025|三上晴子と創造のミーム」展を渡邊朋也と共同キュレーション(√K Contemporary)。著書に『エコゾフィック・アート自然・精神・社会をつなぐアート論』(2023)。共著多数。ポートレイト 撮影:小山田邦哉
渡邉朋也(わたなべ・ともや)
1984年生まれ。2010年より山口情報芸術センター[YCAM]に勤務。展覧会や公演などのドキュメンテーションや、同館で過去に発表した作品の再制作のプロデュースも手がける。このほか、同館のウェブサイトやガイドブックなどの情報発信のプラットフォームの整備も進めている。著書に「SEIKO MIKAMI-三上晴子 記憶と記録」(2019年/NTT出版/馬定延との共編著)がある。 画像:©︎ 山本悠挿し絵事務所
指吸保子(ゆびすい・やすこ)
NTTインターコミュニケーション・センター [ICC]学芸員。1978年生まれ。2005年、ICCに学芸アシスタントとして勤務。以後、映像アーカイヴ「HIVE」のコーディネーター(兼務)、学芸員補を経て現職。現在はICCの展覧会全般の制作に携わる。
福島夏子(Tokyo Art Beat編集長)
「Tokyo Art Beat」編集長