公開日:2026年5月7日

「没後110年 日本画の革命児 今村紫紅」(横浜美術館)レポート。42年ぶりの大回顧展、夭折した画家の作品180点が集結

会期は4月25日~6月28日(展示替えあり)。42年ぶりの大回顧展となる本展をレポート

今村紫紅 護花鈴(部分) 1911 霊友会妙一コレクション *展示期間:5月8日まで

42年ぶりの大回顧展が横浜美術館で開幕

快活自由に、自己の絵を描け。そう仲間を鼓舞した今村紫紅(1880〜1916)は、明治末から大正期にかけて日本画の革新に挑み、35年の生涯を駆け抜けた。その大規模な回顧展「没後110年 日本画の革命児 今村紫紅」横浜美術館で6月28日まで開催されている(展示替えあり)。

会場風景

紫紅の大回顧展が開催されるのは1984年の山種美術館以来、42年ぶり。会場には国指定重要文化財を含む代表作をはじめ、初公開となる多数の個人コレクション作品など計約180点が集結。担当した内山淳子・横浜美術館主任学芸員は次のように説明する。

「紫紅は、日本画の革新に向かって一直線に邁進したイメージがあるが、今回コレクターの協力を得て個人蔵の作品を多数調査することができ、従来とは異なる側面が見えてきた。晩年まで古画の影響を受けながらそこからの脱却を模索し、最後まで多様な表現に挑戦し続けた。こうした点も踏まえ、本展では現代の視点から生涯と作品をとらえ直すことを試みた」

全4章構成の会場は、導入部に各章の概要を代表作とともに展示する展覧会のダイジャスト版のような一室を設置。鑑賞者が紫紅の全体像を把握してから、自分のペースで作品と向き合える「やさしい展覧会」(内山)を目指した。各章タイトルには紫紅自身の言葉が用いられ、豪胆で理論的な人柄の一端を伝える。

本展冒頭の「紫紅の人生をダイジェスト! しっとこう、しこう」の展示風景

横浜から、歴史画の地平へ

紫紅は明治13(1880)年、横浜で提灯問屋を営む家に生まれた。地元で水彩画を学び、17歳で上京して、歴史画の大家の松本楓湖に入門。伝統的な画技習得法である扮本(手本)の模写と写生による研鑽を積み、最初は歴史画の分野で頭角を現した。

会場風景

第1章「古画のよい処を分解して、その後を追え!」は、伝統的なやまと絵を学び、その長所を吸収しつつ新しい歴史画の創出を目指した青年期に焦点を当てる。冒頭には、紫紅が粉本を模写した絵巻物や現在確認できる最初期の《笛》(1900年頃)、実兄の今村興宗や楓湖の作品が並ぶ。ともに楓湖に師事した興宗は、紫紅に野外写生の重要性を説き、実物観察を厳しく指導したという。新しい日本画を目指す岡倉天心の理念と、彼に師事した横山大観や菱田春草らの制作にも大きな影響を受けた。

今村紫紅 笛 1900年頃 東京国立近代美術館

天心が創立した日本美術院などで入選を重ねた紫紅は、歴史人物画で評価を高めていく。当時タブー視された武将・平将門を描いた《平親王》(1907)は東京勧業博覧会で落選したものの、やがて歴史上の偉人を臨場的に描く手法が注目された。この章では《時宗》(1908)や《伊達政宗》(1910)など代表的な作品を通じて、独創的な人物造形も確認できる。

今村紫紅 平親王(部分) 1907 横浜美術館

《鞠聖図》(1911)にも注目したい。蹴鞠の道に励む平安貴族と鞠の精である3匹の猿が出会う主題は、従来は猿の出現に驚く人物を描く構図が定型だった。本作は猿の数を2匹に留めて見る者に画面の外にいる一匹を想起させ、貴族の表情も優しげに表現して、「紫紅のユーモア感覚や大らかな資質が感じられる」と内山は話す。

今村紫紅 鞠聖図 1911 横浜美術館

生活苦を離れて、画筆は遠くへ

続く第2章「絵画は矢張(ヤハリ)多方面に描け!」は、横浜の実業家・原三渓の支援を得て制作に専念できる環境が整い、多様な主題に取り組んだ30歳代初めを取り上げる。

三渓が援助するきっかけとなった《護花鈴》(1911)は、紫紅が江戸初期の《花下遊楽図屏風》(狩野長信筆)から想を得て、太閤・豊臣秀吉の「醍醐の花見」を描いた六曲一双の屏風作品。護花鈴とは、小鳥を追い払うため梢に張り巡らした紐に結んだ鈴を指す。その赤い紐を大胆に配置した本作は、画面に奥行きを与える構図の妙と華麗な装飾性、人物を描き分ける緻密な描写が特徴だ。

今村紫紅 護花鈴(部分) 1911 霊友会妙一コレクション *展示期間:5月8日まで
今村紫紅 護花鈴(部分) 1911 霊友会妙一コレクション *展示期間:5月8日まで

本作を文展の会場で目にした三渓は感銘を受け、紫紅に毎月100円の研究費の支給を決めた。生活苦から解放された紫紅は、東京から小田原に転居し、当時の知識人が好んだ道釈画や花鳥画、水墨による山水図など様々な主題の作品を制作。美術品収集家である三渓の所蔵品に接して、模写を通じて学んできた古画の研究を深め、とくに江戸期の琳派に傾倒した。

第2章後半は、伊勢物語など琳派好みの主題や技法を取り入れ、新しい表現を探った作品が並ぶ。《伊勢物語図》(1911年頃)は、紫紅が好んだ俵屋宗達の影響が簡潔な構図や草花の描写に見られるいっぽう、画中の場面は原作の複数場面を重ね合わせ、紫紅が主人公の心象風景を独自に表現した可能性がある。

会場風景より、右は今村紫紅《伊勢物語図》(1911頃、大阪市立美術館)

宗達が得意とした風神・雷神も繰り返し描いたが、決まりごとにとらわれず自由に解釈して描いた姿勢が展示作品からうかがえる。

「型」を離れた風景画

第3章「自由も、新も我にあり!」は、ふたつの国重文作品《近江八景》《熱国之巻》の制作過程を紹介し、本展の大きな見どころになっている。いずれも紫紅自身だけでなく、近代日本画の転機となり後世に大きな影響を与えた重要作品だ。なお、両作品とも展示期間や展示替えがあるので注意したい(《近江八景》6月5日~28日、《熱国之巻(朝之巻)》4月25日~5月20日、《熱国之巻(暮之巻)》5月22日~6月3日)。

今村紫紅 熱国之巻(朝之巻)部分 1914 東京国立博物館 *展示期間:5月20日まで

1912年夏、紫紅は近江八景を描く写生旅行に出かけた。近江八景とは近江国(滋賀県)の琵琶湖周辺にある8つの景勝地を指し、定型的な風景として名所絵などに繰り返し描かれてきた。そうした「型」に紫紅はとらわれず、自らの目でとらえた《近江八景》を同年秋の文展に出品し、印象派に通じるとも評された明るい色彩や斬新な構図が注目を浴びた。

会場では会期を通じて、三渓旧蔵品の《近江八景(小下絵)》(1912)を展示。小ぶりではあるが、本画同様の雲などの写実的な描写やその後多用した点描を用いた表現を見ることができる。

今村紫紅 近江八景(小下絵) 1912 横浜美術館

《近江八景》により風景画で新境地を開いた紫紅は1914年2月、新たな主題を求めインドへ渡航した。前年に肝臓病を患い、まだ療養中の身だった。インドではカルカッタと内陸部に約2週間滞在し、帰りは中国や朝鮮半島を巡って旅は約3カ月に及んだ。そして同年10月、再興された日本美術院の第1回展にインドや寄港したシンガポール、ペナンでの見聞を描いた2巻組の《熱国之巻》を出品する。

南国の暮らしと自然という主題。鮮やかな色彩と画面を埋め尽くす点描。既存の日本画を超える要素を幾つも駆使して伝統的な絵巻形式に仕上げた本作は、問題作として賛否両論を巻き起こした。パトロンの三渓は「紫紅君一代の悪作」とも評したが、現代の私たちの目にはどう映るのか、ぜひ作品を会場で実見してほしい。

今村紫紅 熱国之巻(朝之巻)部分 1914 東京国立博物館 *展示期間:5月20日まで

走り続けた筆、35年の軌跡

その後、紫紅に残された時間は長くなかった。第4章は再興日本美術院の中心的存在となり、日本画の革新に尽くした最晩年の作品を紹介する。章タイトルの「暢気(ノンキ)に描け!」は、紫紅が美術雑誌に寄稿した文章に由来し、若い画家に対して理屈にとらわれず自由に描くように促した言葉だ。

会場風景

インド渡航年の暮れに紫紅が結成した研究会「赤曜会」は、速水御舟ら同じ楓湖門下の気鋭の後輩画家が集まり、戸外写生を重んじて活動した。発表方法は前衛的で、テント張りの野外会場で計3回の展覧会を開催し、訪れたコレクターが多くの作品を買い上げた。研究と制作に加え、作品発表と販売まで行った赤曜会の活動は、現代的でアクチュアルな試みに思える。

今村紫紅 入る日出る月(小下絵) 1915 平塚市美術館

この時期の紫紅は、中国の明・清期の文人画家やそれに連なる江戸期の南画家の富岡鉄斎や池大雅の研究に打ち込み、作画に反映させた。印象派など同時代の西洋絵画にも関心を寄せた。どん欲に時代や国が異なる要素を取り込み自身の表現に昇華する姿勢は、ひとつの作風に集約できない多様な絵画群に現れているが、1916年2月に再び病に倒れ、帰らぬ人となった。

会場風景

35年の生涯のなかで、ひとつの達成に安住することなく、挑戦と試行を重ねた紫紅。その軌跡は近代日本画の革新と伝統、破壊と建設、可能性と制約のあいだを自覚的に行き来した実践の連なりに思える。未完のまま断ち切られた彼の歩みは、多くの問いを投げかけている。

永田晶子

永田晶子

ながた・あきこ 美術ライター/ジャーナリスト。1988年毎日新聞入社、大阪社会部、生活報道部副部長などを経て、東京学芸部で美術、建築担当の編集委員を務める。2020年退職し、フリーランスに。雑誌、デジタル媒体、新聞などに寄稿。