たかくらかずき展「キャラクターはことば」会場風景 Photo: Takashi Kawashima
埼玉のハイパーミュージアム飯能で、たかくらかずき展「キャラクターはことば」が3月1日まで開催されている。
会場内には、東洋思想にインスピレーションを受け、たかくらによって生み出された数々のキャラクターが集結し、来場者が実際にプレイすることができるゲーム作品も複数展示。入口には鳥居が設けられ、中央には巨大な立体作品《ハイパーマン》が鎮座して、「ハイパーゼロイチ音頭」と題された音楽が流れるなど、デジタルとリアルが交錯する祝祭的な空間が立ち上がっている。
ここで掲げられている「キャラクターはことば」というフレーズは何を意味するのか。北出栞が本展をレビューする。【Tokyo Art Beat】
都心から電車とバスを乗り継ぎ約1時間。埼玉・飯能の緑豊かな宮沢湖畔に広がる「メッツァビレッジ」は、北欧のライフスタイルを体験できる商業施設だ。その一角に建つ「ハイパーミュージアム飯能」は昨年3月1日の開館以来、「キャラクター」をテーマとした企画展を一貫して開催してきた。休日には親子連れで賑わう同施設とも相性の良い、参加型のワークショップを行っているのも特色のひとつだ。
いっぽうで公式サイトの記述からは、デジタルテクノロジーを積極的に活用することで、従来のアート観を揺さぶろうとする挑戦的な姿勢も見て取れる。「アートコンテンツのラボ、製造所」を掲げ、グッズ制作やビジネス展開にも積極的に取り組んでいるとのことだ。総じてアートの新たなあり方の創出を目指す、実験的な性格のミュージアムと言えるだろう。

現在開催中の企画展「キャラクターはことば」の出展作家・たかくらかずきは、こうした同館のビジョンを体現するアーティストだ。AIやNFTといった先端技術を駆使しつつ、日本古来の神仏信仰や妖怪伝承を現代のキャラクター文化に接続させるたかくらは、同館のロゴデザインも手がけており、両者は深いところで思想を共有していることが窺える。
本稿では、たかくら自身が執筆したテキストを補助線としながら、本展が掲げる「キャラクターはことば」というフレーズの意味について、そして会場となるハイパーミュージアム飯能のビジョンにも重なる、オルタナティヴなアート観について掘り下げていきたい。

展示会場に足を踏み入れると、いわゆるホワイトキューブの静けさとは対照的な、アミューズメントパークのような空間が広がっている。中央には「ハイパーマン」と名づけられた巨大ロボットのような立体作品が鎮座し、壁面はドット絵の手法で描かれた絵画作品や、AIを用いた映像作品で取り囲まれている。
なかでもひときわ目を惹くのが、動線上に複数置かれた、実際にプレイ可能なビデオゲームの筐体である。一般に、静かな環境で「作品」を「鑑賞」することを前提とした美術館の仕組みのなかでゲームを展示することは難しい。プレイ体験は画面に向かう個人の内面や操作感覚に閉じてしまい、周囲の鑑賞者にはその内実が伝わりにくいからだ。本展ではそうしたゲーム展示の難点に対して、筐体そのものにデコトラや祭りの屋台を思わせる装飾を施すことで乗り越えを図っている。誰かがゲームをプレイしている様子そのものが、周囲の人間にとっての「鑑賞」の対象となる。ゲームの世界と展示空間が、プレイヤーの主観を結節点として入れ子構造になっているとも表現できるだろう。

本展では、妖怪をモチーフとしたオリジナルのキャラクターのパネルの裏側に記載されたQRコードをスマホで読み取ることで、そのキャラクターのNFTアートを専用アプリ内に持ち帰ることができるシステムが取り入れられている。パネルはメイン会場だけでなくミュージアムの外にも設置され、ホワイトキューブとそこに設置される「作品」ではなく、キャラクターがうごめく「環境」こそがメインであるという世界観を作り上げている。

そこではアートとの出会いが「鑑賞」から「体験」をベースとしたものへと変わる。NFTを「所有」するという行為も、高価な一点もののアート作品を購入するのとは異なり、デジタル的な「複製」を前提としたものである。しかし、ブロックチェーン技術によって唯一性が証明されることに加え、スマホでQRコードを読み取った記憶に関しては固有のものだから、そこにはプライスレスな価値が生まれる。これは神社で複製品としてのお守りを授かり、身につけることで信仰の体系に入っていくプロセスのデジタル版とも言えるだろう。

たかくらはウェブ版「美術手帖」での連載(*1)において、ビデオゲームの本質を「遊び」であると同時に「儀式」であると指摘している。ゲームにおけるキャラクター、とくにプレイヤーが操作するキャラクターは、プレイヤー自身の魂を宿す「依代」としての機能を果たす。特撮作品において「日常→怪獣の登場と破壊→ヒーローへの変身→怪獣の退治と日常の再開」というプロセスの反復が重要であるように、ゲームもまた「依代」を通じた環境への没入と反復的なプレイングを通じて、ひとつの「世界」にコミットする儀式的な構造を持つ。
こうした作家の思考を踏まえれば、立体・絵画・映像・ゲーム……といった様々なかたちでキャラクターがうごめく本展の空間自体が、鑑賞者がキャラクターという「依代」を通じてデジタル世界へ没入し、再び現実へと還っていく「ゲーム的な」空間とパラレルなものとして設計されていると解釈することができるだろう。
本展のタイトル「キャラクターはことば」は、一見すると詩的なメタファーにすぎないように思える。しかし、今日の生成AIを支える技術的な仕組みと、たかくらが好んで参照する東洋思想を照らし合わせることで、極めて触発的なフレーズであることが明らかになる。
ゲームAI開発者である三宅陽一郎は、人工知能の発展史において、記号操作と論理推論に基づく「記号主義」的なアプローチと、ニューラルネットワークによる「コネクショニズム」的なアプローチのふたつの潮流があることを指摘している(*2)。
記号主義的なAIが、「Aという記号」と「Bという意味」の厳密な対応によって世界を分割・構造化しようとするのに対し、近年のディープラーニングが採用するニューラルネットワークの構造は、まず膨大なデータが先に与えられており、そこから言葉やイメージ同士の「確率的なつながり」や「意味的な距離(ベクトル)」を計算する。有名な例で言えば、「女王」という言葉は「王 - 男 + 女」のような演算の結果としてとらえられるのだ。

三宅は、東洋には「物事を区別しないことで知が生まれる」思想が流れているとし、それは「全体」が先に与えられているニューラルネットワーク型の人工知能を開発するうえでもヒントになると述べている。たかくらが神仏や妖怪などの東洋的なモチーフを用いつつ提示するキャラクターのネットワークは、この構造を可視化していると見なすことができる。
たかくらは先の連載で、「記号」と「象徴」というふたつの対極的な言語観を提示している。西洋近代の合理主義を支えた「記号」的な言語が特定の意味と一対一の対応関係にあるのに対し、東洋思想に見られる「象徴」的な言語はひとつの意味と結びつくことなく、複数の意味が重なるネットワークの中を移動し続ける。
宇宙の真理を神仏の配置によって表す「曼荼羅」をはじめ、「Emoji」としてすっかりグローバルな文化になった「絵文字」も、「象徴」的な言語の例と言えるだろう。たとえば「😂」という絵文字は、文脈によって「泣くほど嬉しい」という意味にも取れるし、「悲しすぎて、もはや笑うしかない」という意味にも取れる。「記号」的な言語観では「嬉しい」と「悲しい」のあいだに消えてしまう曖昧なグラデーションのなかを、この絵文字は揺れ動いているのだ。たかくらの述べる「キャラクター」とは、このような文脈において「ことば」なのである。

ところで、日本の現代美術において「キャラクター」と言えば、村上隆が提唱した「スーパーフラット」という概念が長らく影響力を持ってきた。これは物語や人間関係を中心に展開する「美少女アニメ」的なキャラクター文化を主な参照点とした、あくまで「鑑賞者‐作品」の「見る‐見られる」関係を前提にした概念である。
自らもまた身体を持つ存在であることを括弧に入れ、一方的な欲望の視線を二次元表象に向ける「オタク」の主体性を戦後日本のネオテニー性(幼児性)と重ね合わせながら、主に平面作品として具現化されたその理念は、「日本現代美術」の国際的なアートマーケットに対するプレゼンテーション戦略であると同時に、ホワイトキューブにおける静かな「鑑賞」を唯一のモデルとする美術の制度に対してアイロニー的な効果を発揮するものでもあった。

たかくらは、先に見たスマホでNFTアートを取得する仕組みなどを用いて、村上が前提とした美術の「見る‐見られる」モデルそのものに疑問を投げかける。ここで改めて確認したいのが、たかくらと価値観を共有するハイパーミュージアムが、参加型のワークショップを通じて、「子供たち」に向けて開かれたアートのあり方を提示しているということだ。そこでは「幼さ」は克服されるべきものではなく、既存の秩序をゼロ地点へと引き戻し、オルタナティブな通路を開くものとして肯定的に評価される。
この点において目を向ける……いや、「耳を澄ます」べきなのが、本展のメイン会場に流れる「ハイパーゼロイチ音頭」である。『塊魂』などのゲーム音楽で知られる三宅優が作曲し、たかくらが作詞したこの楽曲は、幼げな歌声を絶えることなく音頭のリズムに乗せてループ再生し続け、展示空間を包み込む。

視覚優位の近代美術の制度において、音楽的な要素はしばしば二次的なものとして扱われがちだ。これは絵画や彫刻の制作が、いわば時間を凍結させることで作品を「客体」として「鑑賞」可能なものにする営みなのに対し、音楽の制作は鑑賞者をリズムのなかに巻き込み、ループ的な時間を「体験」させる営みであるという根本的な違いがあるためだろう。たかくらは会場を音楽で満たすことで、近代美術が前提としてきたリニアな成長神話――「見る」主体は視線の先にある「未来」に向かって「大人」になるべきである――から脱却し、何度でもゼロ地点へと立ち返る、自由な「子供たち」が集う場所へとアートを再定義しようとしているのではないだろうか。
そしてこのループ的=ノンリニアな時間という論点は、本展の目玉であるビデオゲーム、並びに映像作品において駆使されている、AI技術の本質にも通じている。
会期前半に展示されていた、たかくらの最新ゲーム作品『悟遊戯 OHENRO 88』は、ポストアポカリプス世界で主人公のロボットが冒険をしながら人間の遺した「仏NFT」をインストールして進化し、悟りを得るまでの物語が描かれるアクションRPGだ。現在は体験版のみが公開されており、筆者が会場を訪れた際にも途中までしかプレイすることができなかったのだが、最後にフェードアウトしていく画面に流れた「リアルな輪廻がはじまるよ」というテキストが印象に残った。
これはプレイヤーがゲームを終えて日常に回帰していくことのメタファーでありながら、完成版に向けて今後ブラッシュアップしていきますよ、というメタ的な宣言とも取れる。プレイヤーから見た体験の反復性だけでなく、バージョン違いが作成されたり、アップデートが繰り返されたりしていくといったメディア自体の性質においても、ゲームは「完成」という終点に向かって制作を進めるリニアな時間感覚に基づいた作品モデルとは異なる、ループ的な時間感覚に基づいた作品モデルを提示する。「体験」の唯一性と「複製」の反復性を同居させるこの性質は、「デジタル」に本来秘められた最大のポテンシャルであると言えるだろう。
そして、このようなループ的=ノンリニアな時間モデルは、生成AI時代の「ことば」という論点とも関わってくる。AIは人間とは異なり、時間をかけた「解釈」のプロセスを必要とせず、言葉の意味を広大な空間内の「位置関係」として一挙に把握することができる。ユーザーインターフェース上の出力は一文字ずつ漸次的に行われるが、その背後にある計算のプロセスに、「過去‐現在‐未来」というリニアな時間構造は存在しない。「空間」という言い方が便宜的にされているけれども、もちろん物理的な空間を内包しているわけでもない。
本展が前提としているのは、そんな「時間」も「空間」もない……すなわち身体を持たない存在である「キャラクター=ことば」こそが主であるポストヒューマン的な世界だ。そして現在、その世界は生成AIツールの普及によって、私たちのすぐ隣にあるものとして可視化されている。たかくらの行う展示、それは「人間の世界」とAIやキャラクターの住まう「非人間の世界」を、境界面において隣り合わせる儀式なのだと言えるだろう。

たかくら作品において前景化している東洋的なモチーフは、たんなるオリエンタリズムの表現ではない。それは行き詰まりを迎えたと言われてひさしい西洋近代的な合理主義とは異なる思考のモデルを提示するものであり、たとえば中国出身の哲学者、ユク・ホイが「宇宙技芸」と呼んで展開する、技術多様性の哲学とも極めて近い問題意識を共有するものである。一見して親しみやすい外観の背後に、挑戦的な姿勢が込められたオルタナティヴなアート活動なのだ。
しかし、たかくらの作家としての何よりの美点は、今回見てきたように極めて理論的でありつつも、シンプルに楽しげでオープンマインドな表現を行っている点だと筆者は思う。「ポケモン」や「Emoji」の親しみやすさのコアを抽出したような、たかくら作品のカラフルでファニーな佇まいは、私たちの住む世界とは異なる世界が隣り合っている事実に、怯えずワクワクする心を持つべきだと教えてくれているように思える。「記号」によってすべてを分割しようとする前の、まっさらな子供時代のように。
*1──「現代美術とヴィデオゲーム 「超主観空間′」と「キャラクター・マトリクス」」美術手帖 https://bijutsutecho.com/magazine/series/s77
*2──「人工知能の開発に活きる「東洋的思想」EIシリーズ記念イベント「マインドフルネス」講演録[前編]」DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー https://dhbr.diamond.jp/articles/-/5747