Asian Black Head 2025
マルタン・マルジェラの個展「MARTIN MARGIELA AT KUDAN HOUSE」が、東京・九段下の九段ハウスで開幕した。会期は4月11日〜5月5日(*会期延長されました)。
1957年ベルギー生まれのマルタン・マルジェラは、1988年にジェニー・メレンズとともにパリで「メゾン マルタン マルジェラ」を設立。1997〜2003年にはエルメスのウィメンズ クリエイティブ・ディレクターも務め、2008年の20周年ショーを機にファッション界を離れた。以降はヴィジュアルアートの制作に専念し、人間の身体を重要なインスピレーション源としながら、「再利用・分解・変容」といったテーマの探究を続けている。2021年にはパリで初個展を開催した。
本展はマルジェラにとって日本初の大規模個展。コラージュ、絵画、デッサン、彫刻、アサンブラージュ、映像など多様な技法を用いた、2011年から2025年にかけての作品群が一堂に会する。会場は、旧山口萬吉邸として知られる1927年竣工の登録有形文化財「九段ハウス」。生活の痕跡が刻まれた古い邸宅での展示は、マルジェラが大切にするプライバシーの空気感を体現している。展示構成とキュレーションはすべてマルジェラ自身よって手がけられた。
本展主催の原田崇人(rin art association)は、「マルジェラの作品は物事の見方を変えてくれるという性質がある」と語り、本展を鑑賞するうえでの重要な概念として「執着(オブセッション)」と「世界は仮固定である(という見方)」を挙げる。
前者については、作家がたびたび素材やモチーフとして用いる髪の毛への「執着」が象徴的だ。後者は、世界が絶えず変化し続け、無常であるという考え方である。マルジェラは作品に決まった展示方法を設けておらず、床に置かれたり箱に収められたりと、状況に応じて様々な形態をとる。本展では壁や家具、窓などが薄いビニールシートで覆われているが、これはすべてが「ワーク・イン・プログレス」であることを示唆している。
展示は地下1階から3階まで4フロアにわたって展開される。作品には番号が振られており、鑑賞者は番号をたどりながら邸宅内の様々な部屋を巡っていく。
2階では、マルジェラの「執着」の対象のひとつである髪の毛を用いた作品と出会うことになる。実家が美容院だったという作家は、頭部を顔まで人の髪で覆った球体の作品を制作している。髪は人間の美しさの象徴となることもあれば、体毛は嫌悪感を呼び起こすこともある。シリコンで作った頭部に人毛を1本1本縫い付けたこのシリーズは、これまでに様々な肌や髪の色のバージョンが作られており、本展ではアジアでの展示にあわせた肌の色と黒髪の《Asian Black Head》が展示されている。
また、17世紀オランダの静物画の一ジャンルで、死の定めや虚栄心の無益さを想起させる「ヴァニタス」をタイトルに冠した《Vanitas II》では、並んだ4つの頭部が黒髪から白髪へと変化し、人体の経年変化や老いの痕跡を映し出す。顔を持たない匿名の球体は、目に見える変化だけでなく、人が経験する生の移ろいをも静かに想起させる。

皮のソファが置かれた談話室に展示されているのは《Dust Cover》。使わない家具などにかける埃除けカバーのドレープやかたちの美しさに着想を得た作品だ。覆われた中身に想像が掻き立てられるが、作家は「中身が不明なままひとつのオブジェとして成立していること」に美を見出した。マルジェラが九段ハウスを初めて訪れた際、この部屋のソファを見て、本作を展示するのは「ここしかない」と直感したのだそう。本展のなかで「いちばん気に入っている部屋かもしれない」とも語ったという。

さらにレトロなタイルが印象的な白い浴室には、真っ黒なトルソーの彫刻が鎮座する。触れると人の肌に似た生々しい感触を覚えるシリコン素材で作られており、人が無防備な姿を晒す場に置かれることで、異物感とともに、かつてここにいた人々の生活の気配をいっそう強調するかのようだ。

3階の最初の部屋に足を踏み入れると、ふさふさとした毛皮に覆われたバリケードの立体作品が出迎える。工事現場などで使われるフェンスにフェイクファーという異素材を組み合わせ、新たな表現を生み出した。

また、ここでも人間の髪の毛をモチーフにした作品が登場する。本作《Cartography》では、「地図学」を意味するタイトルが示す通り、人の頭を地図に見立て、街区の境界線のように毛流れに沿ってラインが引かれている。人間の頭部が何倍ものスケールに拡大されたユーモラスな作品だが、壁にかけるのではなく床に置くことでさらなる迫力を与えることを意図しているという。
「爪」をモチーフにした作品も複数展示されている。巨大なネイルチップのような立体が並ぶ《Black Nails Model》は、ドイツの伝統的な白磁職人の手によって作られたもので、表面のなめらかな黒い艶が目を引く。地下には赤いネイルの作品《Nail Clippings》があり、こちらは切った爪の形状を銅で表現したもの。遠目には見分けのつかない素材の選択にも、マルジェラの作家としてのまなざしが表れている。

展示は1階へと続き、キッチンにはプラスチックケースに収められた古びたサンダルが並ぶ。2011年頃からビーチで落ちているサンダルの収集を始めたという作家。履き潰され、放置されたサンダルを様々にカットしたり、色ごとに組み合わせたりして、新たに再構築した作品群だ。

時間の経過というテーマを別のかたちで扱っているのがバス停のインスタレーション《Bus Stop》。無機質な冷たい金属を柔らかなフェイクファーで覆い、人が「ただ待つ」という時間を過ごす場所を非日常的な空間へと変容させた。マルジェラはこうした日常の物事や状況を鋭く観察し、作品を通してありふれたものを別の姿へと変化させていく。


地下では、人間の身体への関心を深く探究した立体作品が並ぶ。《Mould(S)》は、ルーヴル美術館の収蔵庫で鋳造型の美しさに魅せられた作家が、「本体」のない型そのものを作品として仕上げたインスタレーションだ。中身のない型は、かつてそこにあったものの亡霊のようでありながら、素材を流し込めばいつでも新たに再生しうる。不在を作品にすることで、むしろそこにあったものの気配が濃密に漂う。館内にいくつか点在する「Phantom」のシリーズもまた、台座や壁に残った痕跡とキャプションに添えられた文章から「そこにあったもの」を想像させる作品群だ。
《Tops & Bottoms》は、同じくルーヴル美術館で見ることのできる《ミロのヴィーナス》をモチーフにした作品。外から見える美しさだけでなく、それを生み出す型や内側への関心を深めた作家は、《ミロのヴィーナス》をブラジャー、ガードル、パンツという現代の下着の形状に分解した。空洞になった作品の内側には荒々しいテクスチャーが残り、滑らかに仕上げられた外側との対比が浮かび上がる。

映像作品《Light Test》では、後ろ姿の女性がゆっくりとこちらを振り返る。ようやく顔が見られると思った瞬間、画面はデオドラントスティックのCMへと切り替わる。続いて振り返る女性の顔は、今度は髪の毛で覆われてやはり見えない。デオドラントスティックが人間の汗や臭いを人工的に覆い隠すように、顔という、その人固有の部分がここでも匿名のまま閉ざされる。

自身のポートレイトを公開せず、謎めいた素顔を持つことで知られるマルジェラだが、本展の最後を飾るのは、自身のアーカイヴから発見したコンタクトシートに着想を得たというペインティング作品《Self Portrait (Triptych)》。匿名性を守り続ける作家による「自画像」で本展は幕を閉じる。
マルジェラは2000年に、恵比寿の歴史的な邸宅にメゾン マルタン マルジェラの世界初となる店舗をオープンした。本展は当時と同じように、人が生きた時間の積み重なったプライベートな空間の中で、マルジェラの思想と静かに向き合うことのできる貴重な機会となっている。なお、京都でもタカ・イシイギャラリー京都にて4月17日からマルジェラの個展が開催。ここでは2018年から2025年にかけて制作された近作が展示されるので、あわせて訪れたい。