公開日:2026年5月7日

金属のアンビヴァレンスをめぐって。「メタル」展(銀座メゾンエルメス フォーラム)レビュー(評:長谷川祐子)

2025年10月30日から2026年1月31日まで、銀座メゾンエルメス フォーラムで開催されていた「メタル」展。榎忠、遠藤麻衣子、エロディ・ルスールが参加した本展を、キュレーター/美術批評の長谷川祐子がレビューする

「メタル」展(銀座メゾンエルメス ル・フォーラム)会場風景 ©︎ NACÁSA & PARTNERS INC. / COURTESY OF FONDATION D'ENTREPRISE HERMÈS

両義的な物質としての金属

エルメス財団による「メタル」展(銀座メゾンエルメス ル・フォーラム、2025年10月30日〜2026年1月31日)は、現代における物質の意味を再考する潮流のなかで、極めて時宜を得た企画であった。新物質主義やデジタル化の進展によって、物質が不可視化され、情報へと還元されていく今日において、「金属」という主題は、たんなる素材の提示を超え、物質そのものの存在論的位相を問い直す契機を孕んでいる。本展は、そうした問題系に対して、工芸的・技術史的な観点からではなく、冶金術という人類史的営為の深層にまで遡行しながら、現代の芸術実践のなかにその残響を探ろうとする試みである。

そもそも金属とは、石や木のように自然から直接的に与えられる素材とは異なり、採掘と精錬という人為的プロセスを経て初めて現れる物質である。すなわちそれは、自然と人間の技術的介入とが不可分に絡み合う地点において成立する存在であり、その意味でつねに「生成の途中」にある物質である。この点において金属は、古代の錬金術的想像力とも深く結びついてきた。鉱石から純度の高い金属を抽出し、かたちを与え、別の機能を担わせるという過程は、たんなる加工ではなく、物質の変容をめぐる思考そのものでもあった。

「メタル」展(銀座メゾンエルメス ル・フォーラム)会場風景 ©︎ NACÁSA & PARTNERS INC. / COURTESY OF FONDATION D'ENTREPRISE HERMÈS

キュレーターの説田礼子が指摘するように、本展の基底にあるのは金属の「アンビヴァレンス(両義性)」である。金属は文明を支える道具であると同時に、武器として破壊をもたらし、また貨幣や制度を媒介する抽象的な価値体系とも結びつく。さらにそれは建築や都市空間を形成する構造体であると同時に、神話や魔術的想像力の媒体ともなってきた。このような両義性(アンビヴァレンス)は、本展において抽象的なテーマとして提示されるのではなく、3人の作家の実践を通して、それぞれ異なる位相で現前する。実際本展のレビューを書くにあたり、その両義性とあまりに異なる3人のアプローチゆえに、展示も拡散した複雑系の体をなしており、これを言語化することは困難を極めた。

各作家の中心になる思想なりコンセプトは明快である、しかしそこから展開する展示内容の複雑さと記号的な意味の絡み合いはかなり微分化されている。ゆえに、展覧会そのものが、金属というテーマに「意味の重力」を与えることには成功しているが、これに対する観客の理解については個人差があったように思われた。

「メタル」展(銀座メゾンエルメス ル・フォーラム)会場風景 ©︎ NACÁSA & PARTNERS INC. / COURTESY OF FONDATION D'ENTREPRISE HERMÈS

親しさのなかの重力と強度:榎

榎忠の仕事は、金属という素材の持つ実存的な重量を、極めて直接的なかたちで観者に突きつける。彼は金属加工の現場に身を置き続けた職人であり、その身体的経験と芸術制作とをわかち難く結びつけてきた作家である。その姿勢は、リチャード・セラに見られるような「重力」や「物質との格闘」を重視する彫刻的思考とも響き合うが、榎の場合、それはより生活の現場に密着したかたちで現れる。セラと異なり彼は抽象的なフォルムを鉄で作ることはしない。すでに存在するもののガジェット、あるいは製造過程ででてきた残余をわずかに変容させ「作品として成立する」「別の場所(コンテクスト)に置き直した」ものである。

「メタル」展(銀座メゾンエルメス ル・フォーラム)会場風景 ©︎ NACÁSA & PARTNERS INC. / COURTESY OF FONDATION D'ENTREPRISE HERMÈS

彼はそのようにして、鉄という素材の持つ用途的・象徴的意味を攪乱し、再配置する。銃や大砲といった武器、あるいは工業製品の部品といった要素は、それ自体としては明確な機能や意味を持つ。しかし榎はそれらを解体し、再び構成することで、その意味の連関を断ち切りつつ、同時に新たな関係性を立ち上げる。そこでは、武器としての暴力性と、素材としての鉄の純粋な物質性とが、緊張関係のなかで共存している。

説田の本展記録冊子における論考が示すように、榎の武器作品は「本物に近いが偽物でもない」という曖昧な存在として位置づけられる(*1)。この曖昧さこそが重要である。なぜならそれは、金属という素材が本来持つ両義性を、もっとも端的に体現しているからである。すなわち鉄は、人間の身体を守る装具ともなれば、それを破壊する武器ともなる。その二重性は、観者の身体感覚に直接作用し、柔らかく脆い身体と、硬質で恒久的な物質との対比を浮かび上がらせる。

「メタル」展(銀座メゾンエルメス ル・フォーラム)会場風景 ©︎ NACÁSA & PARTNERS INC. / COURTESY OF FONDATION D'ENTREPRISE HERMÈS

さらに、榎の作品に見られる小さな部材の集合体は、形式的な構成にとどまらず、彼が長年関わってきた空間や時間の蓄積と呼応している。それらは工業製品の断片であると同時に、場合によっては兵器の残骸を想起させる。観者はそこに、機能的秩序と暴力的破壊の両極を同時に読み取ることになるだろう。このような多義的な読みの可能性こそが、金属という素材の持つ記号的豊穣さを示している。これらはメキシコのペドロ・レイエスの、麻薬抗争などで押収された銃を溶かし、社会的なメッセージを込めた道具や楽器(人をつなぐ道具)へと再生させる切断と変容とは異なり、曖昧でモデュレートされた変容である。ペドロは暴力性を脱構築する方法であるが、榎のそれは、判断を観客にゆだねる曖昧さを特徴として成立している。それゆえに彼の作品は諧謔やユーモア、鉄が私たちの周辺に存在する隣人であることのヒューマニティを感じさせるのだ。

不意打ちのアルケミー:遠藤

いっぽうで、遠藤麻衣子の映像インスタレーションは、金属の別の位相―すなわち流動性と変容のプロセス―を前景化する。彼女が扱う水銀は、常温で液体であるという特異な性質を持ち、古来より錬金術や神秘思想と結びついてきた元素である。本展における《識》は、その水銀を中心に据えた複雑な装置として構成されている。「識」は、作法、儀礼、事情、次第などを意味する古語であり、それが支配し、あるいは関わる場と深く結びついている。

「メタル」展(銀座メゾンエルメス ル・フォーラム)会場風景 ©︎ NACÁSA & PARTNERS INC. / COURTESY OF FONDATION D'ENTREPRISE HERMÈS

重要なのは、水銀がたんなる素材として提示されるのではなく、「記憶する物質」として機能している点である。中央に設置されたハート型の迷路のオブジェ(水銀迷路)の中心に置かれた一滴の水銀は、周囲の映像や音響を反射し、分裂と再統合を繰り返しながら、空間全体の出来事を内包する。説田が述べるように、この装置は映像作品を超え、「幻影や錯覚のような様相」を帯びる 。空間を取り囲むマルチチャンネルの映像には、ときに鮮やかな色彩の鱗をぎらつかせながらゆるゆると動く蛇の胴体と、都市、メゾンエルメスの外観と周辺が映し出される。ビルの外にいる数人の男が次々に、走ってきたひとりの男に不意打ちのように、心臓のあたりをタッチされるアクションが展開する。派手な衣装をまとい髪を脱色した若い男と蛇、水銀迷路と彼らの心臓は、イメージとしてシンクロしている。

「メタル」展(銀座メゾンエルメス ル・フォーラム)会場風景 ©︎ NACÁSA & PARTNERS INC. / COURTESY OF FONDATION D'ENTREPRISE HERMÈS

水銀は遠藤によって、現代の都市空間の中に開放されたことで、周囲を歩くものの心臓を掴みとり、水銀迷路のなかに召喚しようとした。錬金術においてものをつないでいく媒介であった水銀は、展示の場での「識」を司る司祭ともなった。トライアングルのチャイムや覗き穴といった儀礼の道具は、この儀式に観客を参加させるための装置である。金属の体と揮発性の霊の両方として振る舞う水銀の二重性、それは魂や精神をもつ物質ともみなされる。水銀を媒介として、中と外をつなぐことによって、遠藤は、周囲の都市空間と展示空間すべてをあらゆる物質が流動し、変容する「識」の場を作りあげていた。映像作家である遠藤のサイトスペシフィクな映像インスタレーションが、水銀というハイパーインターメディアを主題として得たことによって、予想を超えた化学反応を起こしたといってよい。

メタル=スピード、暴力、ひずみ、鋭さ:ルスール

メタル音楽(以下「メタル」と表記する)というジャンルを主軸に制作したのは、エロディ・ルスールである。彼女はほかのふたりと異なり「金属」そのものをテーマとしない。物質としてのありようがメタ化され、記号化され、その概念や精神や美学となったメタル音楽における「メタルネス」がルスールの解釈を通して多様なかたちで展示されている。

「メタル」展(銀座メゾンエルメス ル・フォーラム)会場風景 ©︎ NACÁSA & PARTNERS INC. / COURTESY OF FONDATION D'ENTREPRISE HERMÈS

1968年英国の鉄鋼業の中心地バーミンガムで生まれたブラックサバスを起源とするメタルは金属の強さ、硬質さ、暴力性、魔術性——(これは錬金術からサタニズムまでに及ぶ)機械を通して出現するスピード、鋭利さ、圧力、絶対0度の冷たさなどを反映、吸収してひとつの音楽ジャンルとして展開した。ヘビー、メロディ、プログレ、グランジ、スラッシュ、デス、ニューなどと様々な分化をとげ巨大なリゾーム構造のように増殖してきたエネルギー体。記録冊子のなかのルスールのテキストは「newness(ニューネス)」「alternativity(オルタナティヴィティ)」を求める現代美術がこのエンティティから奪い、借用し、これに憧れてきた過程について語っている。メタルはその音やパフォーマティビティとともに視覚文化にもつながってきた。展示会場にはルスールの解釈による記号的翻訳、流用、オマージュなどが多様な形式で展示されている。なかでも新作のブラックサバスへのオマージュとなった壁面作品と、天井から吊るされていた革のベルトで作られた檻のような作品は、そこで聞く音も含めてメタル性の現代アート化として印象に残った。メタル性を検証することで、私たちは無意識のうちに私たちの感性に浸透し、ドラスティックに転用される金属の本質のひとつに気付かされるのである。

「メタル」展(銀座メゾンエルメス ル・フォーラム)会場風景 ©︎ NACÁSA & PARTNERS INC. / COURTESY OF FONDATION D'ENTREPRISE HERMÈS

生成し続ける物質

3人の作品は離散的でありながら、それゆえに細部同士が共鳴しあうような不思議な構造を持っていた。物質と人間との関係を問い直す試みとして、デジタル化が進み、物質がますます透明化していく現代において、金属という重く、冷たく、しかし同時に変容し続ける存在が、私たちの身体感覚を呼び覚まし、「金属」のリアリティを、感覚や感性に対しても可感的なものとして取り戻す契機となっていた。

本展を通じて浮かび上がるのは、「物質:金属」とは決して静的な存在ではなく、人間の技術や想像力、心理状態、さらには歴史や記憶や現代空間、エコロジーと絡み合いながら絶えず生成し続ける動的なプロセスであるという認識である。その意味で「メタル」展は、現代における物質への回帰を示すのみならず、物質そのものの思考可能性を拡張する場として位置づけることができる展覧会であった。

「メタル」展(銀座メゾンエルメス ル・フォーラム)会場風景 ©︎ NACÁSA & PARTNERS INC. / COURTESY OF FONDATION D'ENTREPRISE HERMÈS

*1——説田礼子「金属の残響 現代の治金師たち」、『メタル』展記録冊子、エルメス財団、2026年、65〜70頁。

長谷川祐子

長谷川祐子

キュレーター/美術批評。近現代美術史、京都大学経営管理大学院客員教授、東京芸術大学名誉教授、国際文化会館アートデザイン部門プログラムデイレクター、 前金沢21世紀美術館館長。京都大学法学部卒業。東京藝術大学美術研究科修士課程修了。犬島「家プロジェクト」アーティスティック・ディレクター。文化庁長官表彰(2020年)、フランス芸術文化勲章シュバリエ(2015)オフィシエ(2024)、ブラジル文化勲章(2017)を受賞。これまでイスタンブール(2001年)、上海(2002)、サンパウロ (2010 )、シャルジャ(2013)、モスクワ(2017)、タイ(2021)などでのビエンナーレや、フランスで日本文化を紹介する「ジャパノラマ:日本の現代アートの新しいヴィジョン」、「ジャポニスム 2018:深みへ―日本の美意識を求めて―」展を含む数々の国際展を企画。国内では東京都現代美術館にて、ダムタイプ、オラファー・エリアソン、ライゾマティクスなどの個展を手がけた他、坂本龍一、野村萬斎、佐藤卓らと「東京アートミーティング」シリーズを共同企画した。主な著書に、『キュレーション 知と感性を揺さぶる力』、『「なぜ?」から始める現代アート』、『破壊しに、と彼女たちは言う:柔らかに境界を横断する女性アーティストたち』、『ジャパノラマ―1970年以降の日本の現代アート』、『新しいエコロジーとアート―「まごつき期」としての人新世』など。