『バービー』 配給:ワーナー・ブラザース映画 © 2023 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved.
色による男女の区別は、20世紀初頭にアメリカの百貨店のベビー用品売り場から始まった(*1)。ここからまずわかるのは、この区別ができたのがごく最近だということだろう。さらに、それが商業的な目的を持ってデザインされた区別であるということ。あるいは、百貨店でベビー用品を買い揃えるような階級のアメリカ人の慣習が前提にあるということ。そしてなにより、子供向けであるということだ。
大人の世界にも、二元的な男女の区別は溢れている。しかし、そのシンボルカラーは必ずしも「ピンク」と「ブルー」ではない。多くの場合、それは「ピンク」と「黒」だ。ピンクと黒は、女と男の区別にとどまらず、遊びと現実、家庭と仕事、そして、子供と大人を塗り分ける。ピンクと黒の区別は、大人の世界の秩序を明るみに出すのだ。
大人になったらピンクは「卒業」するものだと聞いたことのある人もいるだろう。全身ピンクは大人にふさわしくないのだろうか。そもそも、「大人になる」とはどういうことなのか。誰がそれを決めるのか。そんな問いを、全身ピンクの大人が登場する3つの映画を通して考えてみたい。
ここ最近でピンクがアイコニックな映画と言えば、グレタ・ガーウィグ監督の『バービー』(2023)だろう。
バービーランドに暮らすバービー(マーゴット・ロビー)は、人形にあるはずのない死への不安や身体の変化を覚えるようになった。これを解決するべく、バービーは彼女の持ち主である人間の少女に会いにリアルワールドを訪れる。しかし、なんとか探し出したサーシャ(アリアナ・グリーンブラット)に、5歳でバービー人形は卒業したと冷たくあしらわれてしまう。
ピンク尽くしの衣装やセットが公開前から注目を集めた『バービー』だが、リアルワールドを生きるサーシャとその取り巻きが、全員これでもかと黒尽くめだったことは、あまり注目されていない。

バービーランドでは、毎日が最高にハッピーで、死や変化もなければ、性器もない。これに対しリアルワールドでは、身体は生身だし、感情は複雑だし、社会は家父長制である。そんなことはつゆ知らず、フューシャピンクのカウガール姿で楽しそうに振る舞うバービーに対し、サーシャは次のように吐き捨てる。
「あんたは私たちの最悪な手本だよ。性を売りにした資本主義に、非現実的な体型の理想化。(中略)あんたのせいでフェミニスト運動は50年後退した。あんたは女の子たちの自己肯定感を踏みにじったうえ、飽くなき消費主義を美化して、地球を破壊しているんだよ」(『バービー』より)

たしかに、サーシャの言うとおりである。1959年の発売当初のバービー人形は、全身ピンクではなかった。バービーがピンク好きになったのは、ピンクが女児向けのおもちゃのマーケティングとして定着した1970年代以降である(*2)。なんとバービーは、売れるからピンクを着せられていただけなのだ。
ともあれ、バービーはサーシャと母親のグロリア(アメリカ・フェレーラ)をバービーランドに連れて行く。「楽しむ準備はできている?」と、手を差し出すバービー。そう、バービーのピンクは楽しいだけ。しかも、マーケティングされた楽しさだけの象徴である。
そこから色々あって、人間の複雑さに心打たれたバービーは、リアルワールドで生きることを決意する。初めて婦人科を受診するラストシーンの彼女は、ベージュのブレザーに、ベージュピンクのサンダルとトートバッグ姿。バービーランドにいたときは鮮やかなウォーターメロンピンクのドレスを着ていたサーシャも、蛍光ピンクのインナーにグレーのパーカーを羽織っている。リアルワールドにおいて、ピンクは差し色なのだ。

ピンクはたしかに楽しい色であるが、楽しいだけではないはずだ。バービーワールドが非現実的であるのはいいとして、なぜ全身ピンクを着ることそれ自体までもが、現実世界にそぐわないとされるのか。大人の現実は、ピンクでは描けないというのか?
バービーワールドとは異なる角度から全身ピンクの大人の世界を描くのが、フランク・オズ監督の『ステップフォード・ワイフ』(2004)だ。アイラ・レヴィンによる1972年のホラー小説に基づく本作は、1975年に一度映画化されている。ただし、ピンクと黒のシンボリズムはリメイク版のみの特徴である。
マンハッタンで人気テレビ局の社長を務めるジョアンナ(ニコール・キッドマン)は、過激な番組演出が原因で解雇されたことを機に、家族でコネティカット州の郊外にある閑静な住宅街、ステップフォードに引っ越した。しかし、彼女たちを迎え入れる住人の妻たちは妙に愛想がよく、人形のように着飾り、体型もグラマーで、夫に献身的で、不気味なほど完璧だった。
早速ネタバレすると、ステップフォードの妻たちが完璧なのは、夫たちによって巨乳で従順なロボットに作り替えられているからだ。全身黒のバリキャリファッションで浮きまくるジョアンナは、引っ越した初日から何かがおかしいと疑っていた。しかし、せっかく田舎に来たのだから家庭的に振る舞ったらいいではないかと、夫に次のように諭される。
「黒はもうやめよう。(中略)そう、黒を着るのは、権力者で、神経質で、去勢されたマンハッタンのキャリアビッチだけだよ。君はそんなふうになりたいの?」(『ステップフォード・ワイフ』より)
これに対するジョアンナの返答は明快だ──「小さい頃からずっとそうなりたかった」 。楽しいだけの非現実的な世界を生きるバービーが全身ピンクを着るとしたら、キャリアだけの現実的な世界を生きるジョアンナは全身黒を着る。そして、ビッチ呼ばわりされる。じゃあどうすればいいのか。
次のシーンで、ジョアンナはパステルピンクのワンピースと、頭にパステルピンクのリボンまでつけ、専業主婦になってみる。そして、もしかしたらステップフォードのやり方から「幸せになる方法」を学べるかもしれないと、お隣さんたちに語る。
幸せのパステルピンク。それは、第34代大統領夫人マミー・アイゼンハワーが愛用したことをきっかけに、1950年代アメリカの専業主婦に大流行した(*3)。郊外に邸宅を構えた彼女たちにとって、パステルピンクのキッチン家電の真新しさは、先進的な暮らしや成功、そして幸せの印だった(*4)。楽しいだけのピンクと同様、幸せのピンクも商業的に作られていたのだ。
ジョアンナが全身ピンクの専業主婦になって物語が終わることは、もちろんない。彼女はステップフォードを題材にしたドキュメンタリー作品を制作し、華麗に仕事復帰する。ただし、ピンクは着ない。やはりピンクは、キャリアウーマンが身につける色ではないようだ。結局のところ、ピンクは遊びか家庭に引っ込め、公の場では差し色に留めるべきということだろうか?
これまでの2作品とは打って変わり、公の場で全身ピンクを着てみせる大人が登場するのが、ロバート・ルケティック監督の『キューティ・ブロンド』(2001)である。アマンダ・ブラウンによる2001年の原作小説は、彼女のスタンフォード法科大学院での経験に基づいている。
ロサンゼルス市立大学のファッションマーチャンダイズ専攻で優秀な成績を収め、社交クラブの会長も務めるエル(リース・ウィザースプーン)は、卒業を機にプロポーズしてくれると思っていた彼氏に突然振られてしまう。そこで彼女は、彼の進学先であるハーバード法科大学院に入学し、彼を見返してやろうと一念発起する。
エルの彼氏は、上院議員の家系に生まれたお坊ちゃん。今後は法科大学院に進むから、「俺にはシリアスな人が必要なんだ」と言い放ち、エルを振った。バカ野郎。シリアスじゃなかったのはお前だけだろうが。
原作小説にも登場する「シリアス」という言葉は、大人の世界のピンクを読み解くキーワードだ。日本語では真剣、まじめ、まとも、本気などと訳されるこの言葉は、楽しいだけのバービーワールドに欠けている現実や、全身黒のビッチたちが追求するキャリア、あるいは、パステルピンクの家庭に下支えされて成り立つ大人の世界を端的に言い表している。
いつだってシリアスに生きてきたエルは、猛勉強の末にハーバード法科大学院への入学を果たす。そして色々ありながらも努力し、キャラハン教授(ヴィクター・ガーバー)の法律事務所のインターン生に選ばれる。すると、それまで色鮮やかだった彼女のファッションは、真っ黒なスーツへと一変する。
インターン生として担当した裁判では、依頼者である被告人からの信頼も獲得し、順調に見えたエルの法科大学院生活。しかし、「私は狙いを外さない男なんだ」と語るキャラハン教授にセクハラされたことで、すべて台無しになる。クソバカ野郎。頼むからシリアスに仕事してくれ。
何もかも辞めてロサンゼルスに帰ると決めたエルは、次のように言う。
「私は実力を認められたんじゃない。キャラハンが私をインターン生に選んだのは、ただ好みのタイプだったから。(中略)退屈なスーツもストッキングも、自分じゃない何かになろうとするのも、もうたくさん」(『キューティ・ブロンド』より)
もちろん、ここで物語は終わらない。彼女の実力やセンスを認めていた先生や先輩の後押しを受け、エルは自分じゃない何かではなく、ほかでもない自分として、足の爪の先まで全身ビビッドピンクの弁護人として法廷に立ち、被告人の無罪を勝ち取る。
現実世界において、全身ピンクでできないことなどないし、全身ピンクでなくてはできないこともない。ただ、女性的なものをシリアスに受けとめられない大人たちがいるだけである。ピンクを「卒業」すれば大人になれるわけではない。ピンクをシリアスに受けとめられるようになってこそ、一人前の大人ではないか。
もうお気づきの読者もいるかもしれないが、じつはここまでに紹介した3作品の共通点は、ピンクと黒のシンボリズムだけではない。どれもアメリカのアッパーミドルクラスの白人のシスジェンダーかつヘテロセクシャルの痩せ型の健常者女性の成長物語である。つまり3作品とも、百貨店でピンクかブルーのベビー用品を買い揃えるような、規範的なアメリカ人女性が主人公なのだ。
「ピンク」が色の名称として定着した18世紀の西洋世界では、染料のもととなる天然資源が植民地で乱獲された(*5)。希少かつ高貴な色だったピンクは、19世紀に合成染料の発明によって大衆に普及すると、一気に下品な色となった(*6)。かと思えば、20世紀にはチャイナピンク、コンゴピンク、ペルシャピンクといった「エキゾチック」なピンクがモード界でもてはやされた(*7)。ピンクの歴史において、植民地主義や階級差別、そして文化盗用の例は、枚挙にいとまがない。ただひとつ確実なのは、ピンクが決して白人だけのものではないということだ。
ピンクは、いまも昔もずっと現実世界の色だった。ピンクとの距離感を探りながら成長していく大人の物語は、早くから大人になることを求められる黒人や、いつまでも大人扱いされないアジア人、一人前の女性とみなされないトランス女性や障害女性、あるいは、性自認が女性ではない人々にとっては、ハリウッド映画のようにいかないかもしれない。こうした不可視化されたピンクの物語を、これからの私たちはシリアスに受けとめていけるだろうか。
*1——Paoletti, J. B.『Pink and Blue: Telling the Boys from the Girls in America』Indiana University Press、2012、85-93頁。より細かな年代については、Del Giudice, M.「Pink, Blue, and Gender: An Update」『Archives of Sexual Behavior』第46巻、2017、1555-1563頁も参照。
*2——Blandino, G.「#Powercolors: The Story of Barbie Pink」Pixartprinting Blog、2023、https://www.pixartprinting.co.uk/blog/barbie-pink/(2025年2月20日参照)。
*3——Peril, L.『Pink Think: Becoming a Woman in Many Uneasy Lessons』W. W. Norton & Company、2002、5頁。
*4——Marling, K. A.『As Seen on TV: The Visual Culture of Everyday Life in the 1950s』Harvard University Press、1994、40-41頁。
*5——ピンクという名称の歴史については、スティール, V.「ピンク──パンクで、プリティで、パワフルな色の歴史」平芳裕子・蘆田裕史訳、スティール, V.『ファッションセオリー──ヴァレリー・スティール著作集』2025、330頁を参照。天然資源の乱獲の歴史については、Blakemore, E.「Barbie's Signature Pink May Be Earth's Oldest Color」『National Geographic』2023、https://www.nationalgeographic.com/premium/article/pink-color-history-gender-nature-fashion(2025年2月20日参照)。なおアジア圏では、西洋社会より1000年以上前からピンク色の染料が用いられていた(スティール 2025、330-331頁)。
*6——スティール, V.『ファッションセオリー──ヴァレリー・スティール著作集』2025、335-336頁。
*7——同上、344-345頁。