公開日:2026年3月25日

【新連載】名前のない美術史:この10年と100年のアート #0。批評と表現が交差する「弱くて良い場所」(文:布施琳太郎)

この10年の美術に何が起きたのか? アーティストとして活躍する布施琳太郎の新連載がスタート。(構成:灰咲光那)

メインヴィジュアル:星加陸

「美術の起源」ではなく動作環境を考える

この連載批評の目的は、この10年の美術に何が起きたのかを「名前の不在」という観点からまとめることである。そんな「まとめ」のために1920年代から2020年代の100年をタイムトラベルのごとく飛び回りながら歴史化していく。

第0回となる本記事では、執筆の前提となる批評の態度について整理する。(美術に限らず)いま批評とは何か?に応えることが今回の目的だ。前半では美術批評の先人として中原佑介(1931〜2011)と椹木野衣(1962〜)を振り返り、後半では、このふたりの言説を奇妙なソーシャルメディアアカウントが2010年代に行った表現と批評から再構成する。

椹木野衣 『日本・現代・美術』 ちくま学芸文庫  1998/2025

当たり前のようだが、美術とは、音楽や映画、文学、演劇、マンガ、ゲームなどと同じように「制作・発表・鑑賞」が絡み合った文化のジャンルのひとつである。つまり、たんなる理念ではなく現実的な制度なのだ。そして日本における美術制度の起源にさかのぼろうとする言説こそが、これまで美術批評として繰り返し書かれ、読まれてきた。

そうした言説は研究としての価値がある。だが本連載は美術制度の起源を問うものではない。実際にいま活動しているアーティストたちが制度的な起源を意識して、それを前提に制作しているのかと言えば、そんなことはないからだ。しかし、それらが歴史と断絶されているわけでもない。各自が自分にとって重要だと思える事例に向き合っているのが現状だろう。美術は美術史の蓄積だけに規定されているわけではない。しかし過去が記憶されず参照されにくくなっているのも事実であり、それは不健康である。そんな今日の状況を再構成するために、同時代の表現者たちが前提とするインフラ、つまり「制作・発表・鑑賞」を成り立たせる動作環境(プラットフォーム)にこそ着目して連載を進めたい。動作環境の設計思想と影響の変遷を辿るなかで美術史の再構成を試みたい。

今日の美術は……いや、あらゆる表現は、スマートフォンやパソコンといったコンピュータ群が織りなすネットワークのなかで制作され、発表され、鑑賞される。先行事例やリファレンスが気になる表現者は、検索したり、生成AIに質問する。さらに言えば、あらゆる表現を画像や動画として表示するスクリーンのなかには、日常的な買い物から仕事、教育、行政手続き、ニュースのチェック、政治活動、恋愛までが折りたたまれている。すべては指先の動きだけで実現される。

連載を通じて、美術への関心のなかで問われるのは、今日の表現全般を下支えしている技術と思想である。まずはその重要な参照項である「サイバネティックス」について、ひとりの人物から辿ってみたい。

サイバネティックスと、批評の創造性

戦後の日本美術にとって重要な展覧会をいくつも手がけた批評家に中原佑介がいる。湯川秀樹率いる京都大学の物理学研究室で宇宙線を研究する博士課程の学生だった中原は、論考「創造のための批評」(1955)でデビューする。

理系出身の彼は、先行する詩人批評家たちの仕事(自己を語りたがる告白的な批評)を批判するだけでなく、作家を刺激して変革することなく作品の解釈ばかりする同世代批評家たちの仕事を同時に批判する。双方とも自己完結した批評だ。そんな批評家像と類比されるのは、アメリカの科学者、ノーバート・ウィナーが1948年に発表した論文『サイバネティックス:動物と機械における制御と通信』によって予見される「思考機械」である。彼は「人間の手によって働くこの『思考機械』は、いつの日か意識と同程度にも達しえるといわれています」と述べて、次のように続ける。

「もしも造形美術に対する審美的評価が——しかも資本主義社会にあって、絵画が一つの機能になってしまうとすれば——精密正確に行われねばならぬとしたら、この「思考機械」に優るものはないに違いありません」(*1)

生成AI以降の社会について書いているようにすら思えるかもしれない。だからと言って、この文章が70年前に書かれたことに驚いてはならない。思想的なレベルでは、報道や広告が喧伝するほどには何も変わっていないことを受け入れるべきなのだ。サイバネティックスは、コンピュータサイエンスをはじめとした後世の科学や工学に大きな影響を与えたものであり、今日の私たちの生活を支える物理的/情報的なインフラにまで連なっている。

中原佑介 『中原佑介美術批評選集 第1巻 創造のための批評:戦後美術批評の地平』 現代企画室 2011

近年、哲学者のユク・ホイが指摘するように、サイバネティックスは西洋哲学の思考様式を全世界に拡散させた(*2)。だからホイはサイバネティクス由来の思考形式を、西洋以外の視点から複数化しようとする。本連載もまた、西洋的な思考の拡散の産物である美術制度を、独自の視点から再編する試みである。ただし私は思想や哲学ではなく、あくまで表現の側から検証したい。

中原の議論で重要な点は、当時の批評家の多くが想像上の名もなき「思考機械」に劣るとしても、すべての批評が「思考機械」に代替されるとも、そうあるべきだとも言っていないことだ。彼が望むのは、テキストによって作家や作品を変革することで、作家とともに「あたらしい眼」を発見するような批評である。本稿ではそれを、当時の心理学者や計算機学者の言説において「人工知能(AI=Artificial Intelligence)」に対比されるところの「知能増幅器(IA=Intelligent Amplifier)」のように、自己完結せず対話的に思考を拡張することを望むことだと位置付ける(*3)。

彼は「詩でも小説でもない文学形式が批評なのだという錯覚の誕生」までを批判している。なぜなら作品と批評がともにあるからこそ可能な変革が欠如してしまうからだ。中原にとっての批評とは、作品とともにあるからこそ「批評家の意図」すら裏切りながら「作家をゆり動かし」「未来を予見する」ことである

ユク・ホイ 『芸術と宇宙技芸』 伊勢康平訳 春秋社 2024

ところで2020年代の批評は、彼が批判した方向性へと急速に向かっている。令和人文主義(*4)と呼ばれる批評や哲学の入門的書籍の氾濫のほとんどには、作品や作家を変革するような傾向は見出せない。むしろ複雑な議論をわかりやすくするための「共通の話題」くらいのノリで作品が引用され、解釈されるばかりである。先述したホイもまた、美術作品を引用すると、そうなってしまう部分がある。私にとっての批評とは、知能増幅なのであり、そのために表現と批評の相互変革が要請される。

アーティストの私が執筆してきた批評は、まさに「裏切り/ゆり動かし/予見」の三角形のなかにあった。少なくとも実感としては、自らの表現は、自分の書いた批評と「私自身の意図」において一致することはありえなかった。表現が批評に、批評が表現に裏切られ続ける。そのときにこそ「新しいこと」を着想する。だから私はアーティストとして、「共通の話題」のレベルに作品を位置付けてしまう時代の気分に抵抗しながら、当時のサイバネティックスから中原が予見した(AI的な)「思考機械」とも異なる批評を実践したいと考えている。

本連載は現代美術とサイバネティックスという二重のタイムラインのなかで、それらの交差のなかに立ち現れる今日の美術について論じるものである。

「悪い場所」とセカイ系

そのうえで「美術」という概念について最小限の確認をしてみよう。美術史家の北澤憲昭が『眼の神殿』(1989)で示したように、「美術」という言葉は、ウィーン万国博覧会(1873)への参加にあたって明治期に西洋から輸入された翻訳語である。北澤が重視するのは、そうした「起源の忘却」こそが「制度としての美術」という規範の内面化を準備したことである(*5)。

北澤の研究後、美術批評家の椹木野衣は、忘却のサイクルそのものを、先の大戦後の日本美術の特徴として『日本・現代・美術』(1998)にまとめた。なかでもその後の言説に影響を与えたのは「悪い場所」という忘却と反復を前提とした歴史認識である。

これについて著書『震美術論』(2017)での記述を見てみよう。まず椹木は「悪い場所」を「一種の抽象概念だった」と再定義する。阪神淡路大震災(1995)と、それを反復するように発生した東日本大震災(2011)、そして未来に起こるだろう別の震災。これらを踏まえて椹木は「絶え間ない発展と蓄積」を実現する西欧の「歴史」に対して、日本が「発展もなく蓄積もされず、ただ礎らしきものが組まれたそばから地が揺れて崩れ、そのことさえすぐに忘れられ、いつしかまた前とさして変わらぬ礎=石積みを健忘症のように周期的に反するだけ」の「悪い場所」だと述べる。基本的な見立ては『日本・現代・美術』にしても『震美術論』にしても同じだが、「悪い場所」の矛先は、戦後美術史から日本列島の歴史全体にまで拡張されている。

同じことの反復(閉ざされた円環)を直視するために椹木は「悪い場所」を提示した。繰り返し同じ問題が立ち現れる日本美術について、発展的な通史をまとめることは難しい。前世紀末に提示された美術理解「悪い場所」は日本に根付いていったと言える。

椹木野衣 『震美術論』 BT BOOKS 2017

しかし批判もなされており、近年であれば美術史家の富井玲子が、植民地化、政治弾圧、ジェノサイド、強制収用などを経験した他地域に対して「帝国願望」を実現しつつあった日本を「悪い場所」と呼ぶことに疑問を呈している(*7)。また国学思想を専門とする石橋直樹は、椹木の視点が国内でコロニアル化していると指摘する(*8)。正史への移行を強く提言する石橋のような立場からすれば、椹木の眼差しは歪んで見える。しかし2015年には椹木自身も「下手をすると教科書みたいに読まれたりする」ことに違和感を示している(*9)。しかしそもそも音楽やマンガ、特撮映画までを論じる椹木の批評は、ジャンルや時代を超えて何かを再評価するところに魅力があるのも事実だ(*10)。

また、上記の批判では見逃されている黒瀬陽平の批評「新しい『風景』の誕生」(2009)は、『日本・現代・美術』を「セカイ系作品」として論じた(*11)。一般的にセカイ系とは、主人公(ぼく)と恋愛対象(きみ)の二者関係が社会的中間項を介さず「世界の危機」と短絡する物語様式である。新海誠の初期作『ほしのこえ』(2002)などがセカイ系の典型例としてよく挙げられる。

黒瀬が対比するのは、京都アニメーションによってアニメ化された美少女ゲーム『AIR』(2000)である。本作における、インターフェースとしての美少女を通じて1000年前の触れられない「起源/トラウマ」を描く構造は、『日本・現代・美術』における戦争画(大戦後、GHQによって接収されたことで長らく鑑賞できなかった一連の絵画)の扱いと重なるというのだ。

さらに物語構造だけでなく、両者ともに、自然主義的な眼差しから逸脱して変形した人物表象によって支えられていることが指摘される。まずゲーム版『AIR』は、樋上いたるによってキャラクターデザインがなされたが、彼女によるデザインは、限定的なドット(ビットマップ)で表情の変化を描くために眼・鼻・口の距離やサイズを調整したものだという。これに対して椹木が論じたアーティスト河原温の《浴室》シリーズ(1953〜)では、バルーン人形のような人物が、タイル張りの浴室のなかでバラバラになっている。椹木は、中原佑介の「密室の絵画」(1956)を引用しながら次のように述べる。

「この『密室大量殺人事件』のからくりを、探偵さながらに解きほぐすことによって、戦時中に描かれた戦争記録画の『雄大な展望』や『壮烈な歴史的場面』が、実際には近代の底無しの中空に仮構された、歴史と使命という密室空間での猟奇的な殺人の描写であり、そしてまたそのような密室殺人に、自分たちもどこかで加担していた(いる)という緊張感を、見出せるのでなければならない」(*12)

『AIR コンパクト・コレクション Blu-ray(初回限定生産)』 2014

『AIR』において少女が「起源/トラウマ」の出入口であったように、戦後美術においても対象=人物の変形によって、消すことのできない記憶が回帰してくる。しかも敗戦したとしても残る加害者意識として。そのとき「悪い場所」の「悪さ」は、忘却そのものではなく、現在の外にある「起源/トラウマ」の予期せぬ再来ということになる。

そのうえで、やはり指摘すべきは「悪い場所」と呼ばれた「特定の問題の忘却と反復」がひとつの課題として戦後日本美術(あるいは日本)に見出せるとしても、それにのみ固有だとは言えないことである。さらに言えば「忘却と反復」は戦後美術、セカイ系だけでなく現在のソーシャルメディアにおける言説のありようにまで重なる。リポストといいね、炎上と共感のあいだで「問題は吟味され、発展してきたのではなく、忘却され、反復されて」いる。

そもそも『震美術論』が、抽象的な言説空間(当初の「悪い場所」)と、その存立を左右する唯物的な条件(震災による崩壊可能性)を事後的かつ意図的に混同していることを指摘したい。実際『日本・現代・美術』において「悪い場所」と名指された戦後期間は、『震美術論』において大震災の欠如したプレートの休息期だと指摘されている。つまり「悪い場所」と、震災をはじめとした足場の「弱さ」は区別可能なはずなのだ

この区別においては「弱い」環境——地震のように崩壊したり組み替えられたりする——でありながら「良い場所」——過去・現在・未来の言説が忘却されず、時間を超えて触発し合う——も想定できる。たしかに西洋社会を起源とするミュージアムや大学、図書館といった知の制度は、時の権力者によって設計された「強い」環境である。しかし安定維持を前提とする「強さ」のなかでも「悪い場所」、つまり忘れてはいけない記憶の忘却とやってはいけないことの反復がありうる(*13)。

だから私は、足場の「弱さ」のなかで「良い場所」を作ろうとする人々の姿を見つけながら言説を作りたい。それは椹木史観における「悪い場所」の対極を探すことである。いま美術を擁護できるのか?という問いを胸に抱えながら進んでいく本連載が対象とするのは、弱さから表現を立ち上げた事例である。ここでは、正史の描き方を、戦後美術やセカイ系ではなくソーシャルメディアを舞台とした表現のなかから抽出していく。

身体のない作者

ここで参照するのは人間ではなく、ただのアカウント——「サザエBot」(@sazae_f)と「なかのひとよ」(@Hitoyo_Nakano)という旧Twitter(現在のX)アカウントである。これらのアカウントは最初から「現代美術」や「アート」を前提に作られたとは思えないものであり、当時のアートシーンはその活動に対して冷ややかだった。言ってしまえば匿名インフルエンサーのような扱いだったように思う。しかしここにこそ、本連載を書き進めるための「あたらしい眼」のヒントがある。

「A fake shows the reality: Nakano Hitoyo at TEDxTokyo 2014」の様子

まず「サザエBot」とは国民的長寿アニメのタイトルを冠したパロディBotとして2010年7月に旧Twitterに登場したアカウントで、2014年当時は24万人ものフォロワーを擁し、大きな影響力を持っていた。当初はほかのユーザーの投稿やヒットソングの歌詞のコピペ(改変や解釈を加えることのない複製)を行ったため「パクリ」として炎上を繰り返していた。しかしアカウントは「アップデート」を繰り返すことで様々に進化し続けた。最終的には、オリジナルの文言に加えて、ほかのアカウントによる投稿のコピペ、既存楽曲の歌詞、そして公募された「組織の内部告発」や「誰かの心の声」などの異なるコンテクストにある言葉がリミックスされたアカウントになった。

この時点において「美術作品」と呼べる側面はほとんど見受けられない。たしかに2008年、批評家のマリサ・オルソンによって「ポスト・インターネットアート」という言葉が用いられ、2010年代に国際的な動向となった時期と重なるが、ポスト・インターネットアートが、現実空間であれ仮想空間であれ「展示」に重きを置いた制度批判的な実践だったのに対し、「サザエBot」は異なる方向を向いている。それは美術制度の批判的検証ではなく、アカウントという大企業から与えられた主体性を、どのようにして自分たちのものとするかに賭けられているのだ。

アカウント自ら主催した「サザエBotを探す会」(2014)では、参加者が謎解きをしながら都市を探索したが「中の人」は現れなかった。ギャラリーや美術館を介さず、ソーシャルメディアと現実空間を横断することで、サザエBotはアカウント概念の本質を問い続けることになる。

もうひとつのアカウント「なかのひとよ」は、サザエBotの運営者として位置付けられている。(設定としては)サザエBotが収集した人々の感情のデータによって誕生した仮想人格だ。2014年の「TEDxTokyo」には、「なかのひとよ」が登壇した。壇上で「個々ではなくシステムが主体化することで、集団そのものに知性と精神が宿るのよ」と説明された「なかのひとよ」の当時のプロフィールは以下のようなものだ。

「なかのひとよ(2013年12月24日- )とは、サザエBotの収集データに基づく未来予測から誕生したインターネット上の集合的意識/仮想人格。特定の身体を持たず、人前に姿を現わす際は着ぐるみを着用して音声にデジタルエフェクトをかける等、匿名性を維持して活動を行う」(*14)

つまり集合的な匿名性こそが、一連の表現を行う作者である。特定の身体を持たない「なかのひとよ」に媒介されることで「サザエBot」「収集データ」「仮想人格」としての「集合的意識」が、匿名性を維持しながら主体=作者となるのだ。それはバンクシーのような覆面作家が、匿名的とはいえ、作者性を単独化したのとは決定的に異なる作者のあり方だ。また複数の表現者が集まることで活動するコレクティヴのブームも同時期にメディアで喧伝され、インドネシアのコレクティヴ・ルアンルパが芸術祭『ドクメンタ15』(2022)の芸術監督を務めたりしたが、それらが複数の名前を持った人物によって構成されている点で、集合的匿名性の差異も明確である。

なぜなら「サザエBot=なかのひとよ」の作者性は、主体の崩壊のなかにしか存在しえない「弱さ」を前提としているのだ。引用したり収集しては炎上し、言葉遊びを重ね、消滅するでもなくアップデートを繰り返す。そんな弱さの作者性の内実を明らかにすることは今後の議論を準備することになるだろう。

ただし「弱さ」は、崩壊の可能性と表裏一体である。「サザエBot=なかのひとよ」の活動は「ブラックボックス展」(2017)における訴訟問題によって終焉を迎えた。その解決以降、「中の人」はギャラリーやミュージアムという美術制度の内部で活動することになる(*15)。

この10年を論じる本稿が通り過ぎることができないのは、この転換がソーシャルメディアの脆弱性だけで説明できないことだ。まさにこの10年は、表現者や批評家が、法的・経済的・構造的な加害と被害によって活動を続けられない状況に追い込まれる事例が相次いだ。匿名性やパロディ、引用、編集といった表現手法は、著作権に限らないリスクと隣り合わせの想像力だったと言える(この点については次回、さらに掘り下げる)。

しかし同時に、そうした「弱さ」のなかでこそ立ち上がった「あなた」という集合的匿名性の可能性を、訴訟だけで消し去ることはできない。むしろ私たちは、この「弱さ」において立ち上がった表現から学ぶべきだ。そのうえで匿名活動後の「サザエBot=なかのひとよ」によって「なぜ美術という舞台が要請されたのか」は問われなければならない。

二人称の正史へ

「サザエBot=なかのひとよ」による批評的なエッセイ「Anonism:思想化するインターネット」(2016)では、一連の集合的匿名性について次のようにまとめている。これがQアノン(英語圏の匿名掲示板を中心とした極右的な陰謀論コミュニティ)の登場以前に書かれたこと自体が興味深い。

「Anonとは、サザエBotを含むこの輪郭のない運動体の総称です。これは通常インターネット上の掲示板などでAnonymousの略称・匿名を指すスラングとして用いられますが、私(たち)は『目に見えないもの・生前と死後にあるもの・未知そのもの』などの幅広い含みと、Canon(正典)/ Fanon(n次創作)の結合部の意味を孕ませています」(*16)

つまり正史や創造主とも重なる「聖典」と副次的なモノの混合こそを語り(騙り)の表現主体としたのが「サザエBot=なかのひとよ」である。しかし匿名の説明として「目に見えないもの」や「未知そのもの」はすんなりと受け入れられるが、それらに挟み込まれた「生前と死後にあるもの」という表現は奇妙である。この点については一連のソーシャルメディアへの投稿をまとめた書籍『あなたへ』(2016)のあとがきで詳述されている。

「両親に名付けられる前、産道を通り抜け産声を上げるよりもっと前、あなたにはまだ名前がありませんでした。それから数十年、病室で心臓の鼓動が鳴り止んだあと、棺桶のなかで火葬されてしまったもっとあと、あなたは再び名前を失います。あなたの暮らしは、長い匿名(Anon)に挟まれた一瞬の実名ともいえるでしょう」(*17)

「サザエBot=なかのひとよ」が表現しようとするのは「一瞬の実名=生」ではなく「長い匿名=生前と死後」なのだ。それが美術であろうとなかろうと、表現であること自体は疑いようがない。そして二重化されたアカウントによって、その表現を、再帰的に自己批評までしたのだ。アカウント概念によって、伝統的な作者性の問題を脱構築していくなかで「サザエBot=なかのひとよ」は観客の役割が変化していく地平まで到達する。

「アルス・エレクトロニカ」授賞式の様子

2016年に「サザエBot」は、メディアアートの祭典「アルス・エレクトロニカ」のデジタルコミュニティ部門において優秀賞を受賞した。だから「美術になった」とは言わない。むしろ受賞に際して「なかのひとよ」が発したプロジェクト全体の内容と目的を象徴する言葉こそが、ひとつの表現ジャンルを超えたものとして重要である。

「The World is You.(世界はあなたです)」

受賞に際してのインタビューでは「『なかのひとよ』は誰でもなく、誰でもいい。だから『みなさん、受賞おめでとうございます』」と述べている(*18)。20万人以上のフォロワーこそが「サザエBot=なかのひとよ」なのであり、それを現前させるのは「あなた」という二人称の呼びかけによる「私(たち)」の実名の集合的な匿名化である。そこでは「私」の消滅こそが新しい世界の扉をひらくのだ。「サザエBot=なかのひとよ」の集合的匿名性は、時間の流れを円環化する。過去と未来、生前と死後を引き裂くものこそが、私たちの生=実名だが、「あなた」という二人称はその断絶を、ウロボロスのように結び直す。

その円環は「悪い場所」ではない。その「弱さ」は「良い場所」の構築と関わっている。

現在において、過去と未来を、結びつけたり分離したりしながら言葉をつむぐためのヒントがここにあるのではないか。「あなた」という二人称は、歴史家の三人称的客観性(起源への遡及)でも、中原が批判した一人称的主観性でもない。それは語り手と読み手が交換可能な関係性のなかで、過去と未来を結びつける呼びかけである。

従来の美術史は、作家名・作品名・制作年という固有名詞の連鎖によって構築されてきた。しかし「二人称の正史」は、名前を持たない「あなた」——フォロワーであり、参加者であり、未来の読者である——を歴史の主体として召喚する。サイバネティックスが想定した「フィードバック・システム」をラディカルに拡張するように、二人称(あなた)は読み手を観察者から参与者へと変える。そのとき、批評としての歴史は書かれた瞬間に完結するのではない。それは読まれ、応答され、書き換えられ続けるタイムマシンのようなものになる。

「サザエBot=なかのひとよ」が示したのは、すべての名前が消えた場所でも物語が続く可能性である。それは『日本・現代・美術』やセカイ系には期待できない物語のありようである。書籍『あなたへ』の冒頭には、その作者性の謎について「なぜなら私の正体は/反対にいるもうひとりのあなた/あなたのなかのひとだからよ」と書かれている(*19)。「あなた」こそが「聖典(Canon)」と「n次創作(Fanon)」の重なりとしての「匿名(anon)」なのだ。「私たち(日本人)」の加害者意識や被害者意識でも「ぼくときみ」の二者関係でもなく、すべてが「あなた」に還元された場所で歴史を書くこと。

次回以降、私が構想したいのはサイバネティックスと美術が交差しながら立ち上がる「二人称の正史」である。そこでは匿名と実名を高速でスイッチしながら、歴史に個有名として登録された人物だけでなく、もう誰も覚えていない/いまだこの世界に存在したことのない「名もなき誰か」すらを含んだ言説の地平が広がっている。

こうして私たちは「サザエBot=なかのひとよ」を通じて、「名もなきものたち」の歴史を記述するための「あたらしい眼」を手に入れた(*20)。その視点を通じて美術について論じていくことで、この特殊な匿名アカウントの変革を引き受けたい。


*1——中原佑介「創造のための批評」『中原佑介美術批評選集 第1巻 創造のための批評:戦後美術批評の地平』現代企画室、2011年、9〜10頁。
*2——ユク・ホイ『芸術と宇宙技芸』伊勢康平訳、春秋社、2024年。ユク・ホイ『中国における技術への問い』伊勢康平訳、ゲンロン、2022年。しかしホイもまたセザンヌやクレーといった美術作品について論じる段になると、急に保守的になって、共通の話題のように作品を扱う。作品との関係において哲学が自己完結しているのだ(哲学史的には創造的な逸脱に満ちているのに)。
*3——西垣通『思想としてのパソコン』NTT出版、1997年、47頁。
*4——谷川嘉浩「「時代の兆候としての「令和人文主義」。あるいは、なぜ突然そんな用語をつくったのか。」2025年、note(https://note.com/houkago_kitsune/n/nbcbfb7d7a339)。
*5——北澤憲昭『眼の神殿:「美術」受容史ノート』ちくま学芸文庫、2020年。
*6——椹木野衣『震美術論』美術出版社、2017年、36頁。
*7——富井玲子『オペレーションの思想:戦後日本美術史における見えない手』イースト・プレス、2025年、36頁。
*8——石橋直樹「【書評】「美術」制度批判から「正史」へ(椹木野衣『日本・現代・美術』)」2026年(https://note.com/1484_naoki/n/nc50a8ca85cfd?sub_rt=share_pw
*9——椹木野衣、松井茂「椹木野衣インタビュー:現代美術をめぐる言語空間の現在──シミュレーショニズムから後美術まで」アートスケープ、2015年(https://artscape.jp/focus/10109685_1635.html
*10——念の為に述べておくと、歴史認識において批判的に言及した椹木だが、作家や作品の変革という点においては、執筆だけでなくトークやキュレーションから成果を挙げたことは述べておきたい(村上隆やChim↑Pom from Smappa!Group、成田亨など)。その点で彼の仕事は、批評の「裏切り/ゆり動かし/予見」に満ちている。しかし作家や作品を論じるように「日本」や「戦争」を批評するとき、先述したような批判が出てくる。
*11——黒瀬陽平「新しい「風景」の誕生」『思想地図 vol4』NHKブックス、2009年。
*12——椹木野衣『日本・現代・美術』ちくま学芸文庫、2025年、406頁。
*13——椹木の「悪い場所」から「弱さ」を引き出すアイデアは拙稿「フィンガーメイド時代の芸術作品」(『ゲンロンy』2026年、ゲンロン所収)の数段落を元にしている。しかしたんなる流用ではなく、その後の石橋とのやりとりを経て着想された内容を多く含んでおり、またテクスト全体のテーマも異なる。ただし執筆時期としては本稿の方が後である。両方読む方は留意していただきたい。
*14——「『サザエBot』とは」KAIYOU(https://kai-you.net/word/%E3%82%B5%E3%82%B6%E3%82%A8bot
*15——この点については、こちらの論考で詳しく書いている。布施琳太郎「最高傑作としての「フーアムアイ?」——松田将英のアノニズム試論」2021年(https://boundbaw.com/world-topics/articles/122
*16——サザエBot『Anonism 思想化するインターネット』Medium、2016年。
*17——『あなたへ』140頁。
*18—— 「『サザエBot』なかのひとよインタビュー」FUZE、2016年(https://www.fuze.dj/2016/11/sazae-bot-nakano-hitoyo.html
*19——なかのひとよ『あなたへ』セブン&アイ出版、2015年、132頁。
*20——この点については私の実作品として《名前たちのキス》(2021)という映像作品、個展『新しい死体』(2022)、詩《アノードとカソード》(詩集『涙のカタログ』(2023)収録)などがある。

布施琳太郎

布施琳太郎

ふせ・りんたろう アーティスト。1994年生まれ。スマートフォンの発売以降の都市における「孤独」や「二人であること」の回復に向けて、自ら手がけた詩やテクストを起点に、映像作品やウェブサイト、展覧会のキュレーション、書籍の出版、イベント企画などを行っている。 主な活動として個展「新しい死体」(2022/PARCO MUSEUM TOKYO)、廃印刷工場におけるキュレーション展「惑星ザムザ」(2022/小高製本工業跡地)、600ページのハンドアウトを片手に造船所跡地を巡る展覧会「沈黙のカテゴリー」(2021/名村造船所跡地〔クリエイティブセンター大阪〕)、ひとりずつしかアクセスできないウェブページを会場とした展覧会「隔離式濃厚接触室」(2020)など。主な参加展覧会に「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」(2024/国立西洋美術館)、「時を超えるイヴ・クラインの想像力」(2022/金沢21世紀美術館)など。著書として『ラブレターの書き方』(2023/晶文社)、詩集『涙のカタログ』(2023/パルコ出版)。東京藝術大学美術学部絵画科(油画専攻)卒業。東京藝術大学大学院映像研究科(メディア映像専攻)修了。