公開日:2026年5月7日

【連載】名前のない美術史:この10年と100年のアート #1。バイブスの時代(文:布施琳太郎)

アーティスト、布施琳太郎による連載第1回。本連載は、この10年の美術に起きたことを「名前の不在」という観点からまとめるもの。1920年代から2020年代の100年をタイムトラベルのごとく飛び回りながら、現代美術を歴史化する。(構成:灰咲光那[編集部])

「獸(第3章/EDGE)」(2025)会場風景 竹久直樹 画像提供:CON_

バイブスの歴史へ

本稿は、アフターコロナの文化を「バイブス」という語から解釈することを目的としている(*1)。バイブスとは、正確な意味や説明、文脈を超えて共有される関係の感覚のことである。それは表現者と鑑賞者、作品と素材、ギャラリーとクラブ、ストリートといった区別に先立って、表現を「感じる」ことを可能にする。飲み会やクラブで「バイブスあげてこ」と言えば、多くの場合、細かな説明なしに何を求められているかが伝わる。それは離れていたはずの人間や場所やメディアを、ひとまず同じ場に乗せてしまう接続の技術なのだ。

英語の「vibe/vibes」は「vibration」の短縮として1960年代後半にスラング化していたが、その後の音楽文化やインターネット文化のなかで、「雰囲気」「波長」「言語化しにくい感触」を指す語として広く定着しという(*2)。近年はAIを用いた日常言語によるアプリケーション開発、プログラミングなどが「バイブ・コーディング」と呼ばれている。現状に即してまとめれば、バイブやバイブスとは、専門性や高度な技術、リテラシーを超えて、本来はバラバラなものをつなげながら方向づける技術である。つまり本稿は、ソーシャルメディア、プラットフォーム、アーキテクチャなどの内側を自由に横断する技術として「バイブス」を位置付けることで、バイブスの歴史を立ち上げる試みである。作者や作品といった固有名ではなく、知覚と接続の技術としてのバイブスから文化の景色を描く。

コロナ禍はバイブスの歴史において決定的だった。感染対策は、距離、接触、滞在、移動、収容人数に基づいて空間を管理し、人々を分離し、身体の配置そのものを統治の対象にした。公衆衛生の観点からなされた感染対策では「どこにいて、誰といて、どれだけ近づくか」が細かく規定され、空間は生権力的に編成し直された。日本国内では罰則規定による行動の制限というよりも「自粛要請」というかたちで飲食店や商業施設などの営業時間短縮、休業がなされた。言ってしまえば「空気を読め」ということである。

だからこそ、コロナ禍における空気の管理を迂回しながら別の接続を作るものとして、バイブスが重要になったのである。クラブに行かないまま音楽が共有され、展示空間が閉じたまま画像や短尺動画が流通し(*3)、直接会わなくとも投稿、配信、ミーム、ダイレクトメッセージが「一緒にいる感じ」を仮構した。これから論じるバイブスの事例たちに通底するのは、内容の伝達を超えて接続そのものを成立させる、振動の論理である。

*1——なお、ポストパンデミック以後のアート界における「vibe」の経験については、Melanie Bühler “What’s in a Vibe?”(Mousse, 2022)も参照。しかし当該論考で書かれたような社交的・展示的経験に筆者の関心はとどまらず、通知、警報、バイブ・コーディングにまで広がる「接続の技術」としてのバイブスに向かっている。
*2——Harper, Douglas. "Etymology of vibe." Online Etymology Dictionary(https://www.etymonline.com/word/vibe;2026年4月3日アクセス)
*3——2020年のオンライン展の状況については以下のテクストで詳述した。布施琳太郎「定義することなく、多義的であること」ウェブ版美術手帖、2021(https://bijutsutecho.com/magazine/review/23706;2026年4月3日アクセス)

振動する絵画と、揺れる若者

文脈を広げておこう。1904年、ポール・セザンヌはエミール・ベルナール宛の手紙で、絵画制作において、自然を円筒・球・円錐によって扱うべきだと述べるとともに「われわれの光の振動(nos vibrations de lumière)」という言葉を記した(*4)。そこで問題になっているのは、世界そのものが震えているといった神秘主義ではない。赤や黄の光の効果のなかに青みを導入し、画面に空気と奥行きを生じさせるという、極めて具体的な絵画上の課題を「光の振動」として論じているのだ。あくまで絵画制作論のなかの「振動(vibration)」だが、それは私たちにとっても重要である。セザンヌの画面は、たんに向こう側の景色を見せる窓ではなく、色彩と形態が接触し応答しあう場として構成されている。「振動」という語彙は、無関係なものがインタラクティブに関係し合うことの説明のために用いられているのだ。

ポール・セザンヌ サント=ヴィクトワール山 1904頃 フィラデルフィア美術館所蔵 Paul Cézanne, Public domain, via Wikimedia Commons

偶然的な部分もあるが、振動の論理は、この100年のなかで絵画の内側から文化実践全体へと広がっていった。ロックバンドThe Beach Boysの1966年の楽曲《Good Vibrations》は、たんなる「振動」という以上の超感覚的でロマンティックな知覚として「vibration」の意味を拡張した。さらにこの語は「vibe / vibes」としてスラング化され、ヒップホップ以後の音楽文化やインターネット文化は、この言葉の使用法を拡張してきた。今日にいたるなかでバイブスは「雰囲気」「波長」「言語化しにくい感触」「一緒に」といった何らかの体験の総合的な感覚を指す言葉として定着していった。

今日の「バイブス」は、セザンヌにおける「光の振動」が、絵画の問題に限定されていたのとは異なる。現代のバイブスとは、音楽やグラフィックデザイン、クラブ、飲み屋、ギャラリー、国道を走る車内、誰かの家、公園、さらには恋愛や友情までのジャンルや空間を横断しながらクラスター(人々の集まり、界隈)を形成する力のことである。バイブスは特定の表現領域、場所、ウェブ・プラットフォームに限定できない。しかしだからこそ本来無関係なはずの要素が応答し合う場を作るための震えという点においては、共鳴している。

コロナ禍にリリースされた《GOKU VIBES》(2020)は象徴的である。『ドラゴンボール』(1984〜95)の孫悟空という世界的なキャラクターを軸としながら、Tohji、Elle Teresa、UNEDUCATED KID & Futuristic Swaverといったラッパーたちが日本語、英語、韓国語を織り交ぜながら怒涛のようにリリックを並べ立てる楽曲だ。

《GOKU VIBES》はたんなるヒット曲というより、自分たちで流通と身振りまで設計する出来事として受け止められていたように(その界隈の外にいる自分には)見えた。たとえばTohjiはインタビューで、ライブやパーティを「同じ空間で同じ音楽を聴くことで、お互いがつながっていく」場として語り、さらに自らの美意識を「スワッグ」として「新鮮な空気とか、新しい意味を生むとか、そのクールな感覚」と説明している(*5)。つまり当時の実感は、楽曲の意味内容よりも、新たな空気を作り、接続を発生させる感覚に近かったのではないだろうか。実際、TikTokには「#gokuvibeschallenge」というハッシュタグをつけてダンスするティーンエイジャーの動画が多数投稿されていた(*6)。

そこでは言語、文脈、流通のあり方までが、文字通りの「バイブスの高さ」によって組み替えられていった。だから歌詞の内容を逐語的に分析しても、あまり意味がないだろう。考察や解釈に先立つように、若者たちは身体的な共有を連鎖させながら揺れていたのだ。現在における「バイブス」という言葉のニュアンスをとらえるのに、ここまでの好例はないと筆者は考える。

*4——Paul Cézanne, letter to Émile Bernard, 15 April 1904, in Alex Danchev, ed., The Letters of Paul Cézanne (Los Angeles: Getty Publications, 2013), cat. no. 233, pp. 334–336.
*5——Noa「Tohji | 新しいシーンへの扉」2023、Chorarei(https://chorareii.com/jp/tohji-interview-a-gate-to-a-new-scene-jp/
*6——Shimada Mai「【特集】TikTok発のバイラルヒットについてアーティストはどのように考えているか」2021、FNMNL(https://fnmnl.tv/2021/01/12/113994

バイブ・コーディングのバイブス

バイブスは音楽や映像の受容だけでなく、アプリケーション開発の基盤にもなりはじめている。いわゆるバイブ・コーディングは、プログラミング言語によって厳密に記述する代わりに、実現したい雰囲気や挙動を自然言語で指示し、その場で立ち上がる画面や機能を調整していく実践である。そこでは設計や実装の細部はしばしば不可視化され、制作者に求められるのは、文法や構文の完全な理解よりも、複数の出力のなかから「いまここにふさわしい感じ」を選び取る判断になる。書くことより選ぶこと、組むことよりノリを合わせること。制作も設計も、バイブスの調整へと変わりつつある。

実際、筆者も自身のウェブサイトをChatGPTやClaudeにコーディングしてもらうことで作成した。最終的なデザインの仕上がりのイメージも持たず、AIにプロトタイプを次々に出力してもらいながら、それらの要素を組み合わせていった。革新的だと感じたのは、エラーやバグなどの原因を瞬時に特定して修正する能力である。筆者はバイブスの調整役として振る舞うだけでいい。そうした調整の技術は音楽や映像、グラフィックデザイン、そしてアートの現場にまで影響を与えている。ジャンルを問わず、表現はキュレーションされ、バイブスによって再配置される。いや、キュレーションの意味が変容して行っている。

この変化は、コロナ禍において表現や制作の現場が失われたことへの、ある種の応答でもあるだろう。人々は細部や目的を共有できなくても、バイブスを共有することでつながろうとした。だがそのことは同時に、経験を方向づける語彙そのものを貧しくする危険も孕んでいる。バイブスは、対話不可能だった相手や対象を扱うための回路を開くが、そのいっぽうで、すでに共有された「感じ」の範囲から外へ出る力を弱める可能性がある。

Tohjiを含む20組以上の客演を招いたアートプロジェクト『獸(第3章/EDGE)』(2025)は、展覧会とライブを組み合わせた試みだった。本プロジェクトは2021年より実施されており、今回が4回目だ。『獸』で前景化しているのは、個々の作品の意味よりも、それらをどう並べ、どのような空気を場に発生させるか?であると筆者は考えている。新作だけでなく既存作品や既存曲まで含めて再配置する形式は、完成した物語やコンセプトを説明するというより、バイブ・コーディングのプロンプトのように、参加者と来場者をひとつの方向へ調律する。「この河川敷でゆっくりしてほしい、思い出してほしい、遊んでほしい、獣になってほしい」というステートメントは、そのことをよく示している(*7)。

「獸(第3章/EDGE)」(2025)会場風景 竹久直樹 画像提供:CON_

アプリケーション開発が「こんな感じで」という言葉でバイブスが調整されながら進行する時代に、ステートメントや依頼文のあり方も変化していくのは当たり前とも言える。重要なのは「意味より先に方向づける」という性質が、音楽やアートなどの文化実践だけでなく、私たちの日常的なインターフェースにも浸透していることだ。それは、遠くにいる他者や、まだ起きていない出来事にさえ身体を同期させる、極めて具体的な技術になっている。最後に考えたいのは、振動していないはずのデバイスが振動したように感じられてしまう「ファントム・バイブレーション・シンドローム」である。

*7——「"獸"とは/"JYU"is」2025、特設サイト(https://ineejyu.com/

振動するコンピュータ

「ファントム・バイブレーション・シンドローム」とは、通知が来ていないのに、自分のスマートフォンやスマートウォッチが振動していると錯覚してしまう症状のことだ。一時期の筆者も電車の揺れを、誰かからの連絡だと勘違いし、画面を確認しなおし続けてソワソワしていた時期がある。ここではバイブではなく、実際の物理的なバイブレーションの今日的な状況についてまとめたい。

ポケットのなかのスマートフォン、手首のスマートウォッチが発する、短く断続的な震え。それは遠くにいる他者、更新された情報、いま起きつつある出来事を知らせる振動であり、身体を同期させるためのもっとも日常的なインターフェースである。バイブスが、他者同士を「なんとなく一緒にいる感じ」へと接続する集団的な技術だとすれば、通知の振動はその最小単位にあたるだろう

ファントム・バイブレーション・シンドロームの原因について、心理学などを用いて説明することもできるのだろうが、そもそもの原因は「手にしていないデバイスが勝手に情報を受信する」ことだし、それを「受信のたびに通知する」ことである。ここで問われるべきは、振動していないデバイスが振動しているのだという誤認がなぜ起きるのか?ではなく、いつでもデバイスが振動する可能性があるような生とは何か?である。

四肢の一部を切断した人間が、存在しない腕や足の位置において痛みを感じる症状はファントム・ペイン(幻肢痛)と呼ばれる。それがファントムであるのは「あるはずのものがない」という事実から「ないはずのものがある」へと反転した認知である。切り落とされた右足(あるはずのものがない)の、存在しない爪先が痛くなること(ないはずのものがある)。この反転こそがファントムである。

そうであるならデバイスの振動は、それ自体が「ファントム」だ。振動は、目の前にいない誰かから情報が届いたことを伝える。(人間であれニュースサイトであれ)不在の他者からの情報をリアルタイムで伝達し、情報が発信されたことを見逃させないために、私たちのデバイスは振動する。スマートフォンやスマートウォッチとは「ないはずのものがある」ための、つまり遠くにいる「誰か」「何か」が目の前に存在するための場である。Apple社のCEOティム・クックは、同社による精細な振動システム「Taptic Engine」をはじめて搭載することになったApple Watch(2014)の発表において「誰かが自分の手首をタップしているよう」だと説明した(*8)。

さらに重要なのは、デバイスの振動は、通知のためだけでなく画面内のオブジェクトの動作や変化の表現のために用いられることだ。スマートフォンのロック解除、ウェブページやタイムラインの再読み込み、アイコンの長押し。そういった操作においてもデバイスは振動する。デバイスの振動は、画面内世界を純粋に視覚的なものではなく、手触りのあるモノたちの集まりとして表現するのだ。通知ではなく操作において、振動は、画面に表示されたデジタルオブジェクトの実在を仮構する

任天堂はNintendo Switch(2017)のコントローラに搭載された「HD振動」という技術について「ボールが転がる触感や、ガラスの中で氷がぶつかるような触感などをつくりだすことができる」と述べている。ゲームソフト《1-2-Switch》(2017)に収録された「カウントボール」というミニゲームでは、コントローラーの振動だけで、架空の箱のなかのボールの個数を表現した。かつてのゲーム機の振動機能は「震えるか、震えないか」だけだったわけだが(*10)、Nintendo SwitchのHD振動はAppleのTaptic Engineと同じように、ファントムな(ないはずのものがある)存在の技術へと振動表現を移行させたのだ。

アーティストの海野林太郎は《中間存在》(2024)において、天使のコスプレをしたような青年や骸骨などのイメージが表示された大型ディスプレイを高速で振動させた。背面に取り付けられた機構によって強制的に振動するディスプレイは、破壊されてブラックアウトしようとしているかのように画面が明滅する。本作は、振動するデバイスが「いないはずの存在を現前させる」ことを、幽閉されたような天使のイメージによって表現する点で、振動のファントム性を的確に表現した事例に思える。ディスプレイだけでなくギャラリーの壁面までを振動させながら轟音を立てる本作を前にした筆者は「壁が壊れてしまうのではないか?」と身をこわばらせた。だがその振動の持続においてこそ、存在しないもの(天使)との対面が実現される。もちろん、視覚的にではなく振動において。

しかし少なくとも私たちの日常において、デバイスの振動は、日常的で平和な時間に最適化された接続の技術である。ところが同じデバイスが生存の危機を知らせるとき、バイブレーション以上の仕方で通知がなされる。警報が鳴る。地震の発生が、ミサイルの発射が、通知される。

「ないはずのものがある」という便利で快楽的な日常のバイブレーションは、同じく「ないはずのものがある」という生存の危機を導き出す震災やミサイルの到来可能性においては警報によって上書きされる。

警報は、マナーモードを無視する。ユーザーの意思や設定を超えて、強制的に音を鳴らし、画面を光らせる。ここでは「バイブスを共有するか否か」という選択の余地はない。震災にしてもミサイルにしても、その発生/発射から各地点への到着までには時間を要する。つまり警報のリアルタイムは、空間的な距離をキャンセルしながら未来を先取りする点で、日常的な通知のリアルタイム性とは異なる。警報は未来に働きかけるものだが、通知や操作のための振動は現在のなかでのインタラクションに過ぎないのだ。

だからこそ海野の作品は、ただの映像表示機器を過剰なまでに振動させることで、本来の機能を超えて、その崩壊の予期を「天使の到来」と重ね合わせ、振動そのものの可能性を切り開こうとする点で興味深い。そのような振動表現は、日常的なデバイスには導入されないものである。

たしかにバイブスは、コロナ禍において空間の管理を迂回する接続の手段として機能した。しかし生存の危機を伝える警報は、バイブスの「共有された感じ」を一方的に中断する。そこに立ち現れるのは、バイブ、バイブスの外部である。バイブスは平和な時間に最適化された技術であり、その外を想像する能力を、それ自体としては持たない。だからこそバイブスや振動を作ることよりも、それを批評する試みこそが期待される段階に私たちは立っているのではないだろうか?

*8——Kyle Vanhemert「手品のような『触感のUI』の未来」Wi​​red、2015(https://wired.jp/2015/04/12/apples-haptic-tech/
*9——編集部 Norome「学研さんと『HD振動』のヒミツについて調べてみました。」任天堂、2017(https://www.nintendo.com/jp/topics/article/73d9531a-6bbe-11e7-8cda-063b7ac45a6d
*10——技術開発部 青木さん「同じ建物で開発するメリット」任天堂(https://www.nintendo.co.jp/jobs/keyword/29.html

バイブ(ス)の論理

ファントムな存在の技術として、つまり「ないはずのものがある」という存在の様式として、スマートフォンやスマートウォッチ、ゲーム機のコントローラーは振動する。それはデジタルオブジェクトやゲーム内世界に触れることを可能にするだけでなく、いつでも通知が来る可能性、不在の他者の現前によってファントム・バイブレーション・シンドロームを惹き起こしもする。

今回論じた一連のバイブ(ス)論——セザンヌの「光の振動」、音楽文化やキュレーションにおけるバイブス、生成AI以降のバイブコーディング、手触りすら表現するデバイスの振動をまとめて「バイブ(ス)」と表記しよう——を、かなり思い切った仕方で、ひとつの問題意識のもとに総括してみよう。

第一に、振動に触れるとき、私たちは現在という時制を延長しているのではないか? 振動は、振動している限りにおいて、延長された現在として経験される。「心理学的現在」と呼ばれる「いま」の感覚は0.5秒から3秒程度の幅を持つというが(*11)、握り締めたデバイスが振動を終えるまで、私たちの「今」は「振動に触れていた」「振動に触れている」としか説明できず、そうであるが故に「今」が完了せず、延長されたように感じるのではないか?(*12)

しかし第二に、振動は、たんに現在を延長するだけでなく、記述されず実在しない存在を現象させる。ここまで論じてきたように「振動(バイブレーション、バイブ、バイブス)」は、「ないはずのものがある」ことを可能にしたり、複数の作品を意味づけることなく方向づけてキュレーションしたり、雰囲気の調整だけでアプリケーション開発を可能にする技術とも関係する。

しかるに現在を延長しながら、存在しないものとのインタラクションを可能にするのが振動である。現実か、現実でないか。真か、偽か。そういった対立について考えないことがバイブ(ス)へと収束していく振動史の結論だと言える。時間を共にしていると同時に、応答関係を築くことも可能であるのに、そのやりとりの相手が実在しているのか否かを問わない特殊なコミュニケーションの形式。それがバイブ(ス)へと収束する振動の論理である。

既存の枠組みでは接続できなかった他者や場を結びつけるという意味で、バイブ(ス)は一時的なカウンターとして機能してきた。だがその成功ゆえに、今度はバイブスそのものが新しい内側になりつつあるのではないか。制度化し、規範となってしまったのではないか。

たしかにバイブ(ス)は、新しい表現の地平をひらいた。だがその現状を見極めるためには、生存の危機を知らせ、未来を先取りする警報のような存在を同時に見つめる必要がある。いま問われているのは、バイブスを使いこなすことだけではなく、その外部を想像し、それを批評する技術なのである

そのとき初めて、バイブ(ス)は「いまここ」の同期を超えて、すでにこの世を去った存在、いまだ生まれていない存在たちとの協働の技術にまで展開するのだろう。

*11——平井靖史「概念のツールボックス」『時間を哲学する:思考のためのツールボックス』2026、慶應大学出版会、5頁、68頁。
*12——この段落の記述は、上記論考における時間経験の分類としての「映画モデル・把持モデル・延長モデル」の整理、そして時制ではなく「出来事が『どのように』進行しているか、または完了しているかを示す」アスペクトについての整理に触発されつつ、振動の説明のために独自に解釈した。

布施琳太郎

布施琳太郎

ふせ・りんたろう アーティスト。1994年生まれ。スマートフォンの発売以降の都市における「孤独」や「二人であること」の回復に向けて、自ら手がけた詩やテクストを起点に、映像作品やウェブサイト、展覧会のキュレーション、書籍の出版、イベント企画などを行っている。 主な活動として個展「新しい死体」(2022/PARCO MUSEUM TOKYO)、廃印刷工場におけるキュレーション展「惑星ザムザ」(2022/小高製本工業跡地)、600ページのハンドアウトを片手に造船所跡地を巡る展覧会「沈黙のカテゴリー」(2021/名村造船所跡地〔クリエイティブセンター大阪〕)、ひとりずつしかアクセスできないウェブページを会場とした展覧会「隔離式濃厚接触室」(2020)など。主な参加展覧会に「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」(2024/国立西洋美術館)、「時を超えるイヴ・クラインの想像力」(2022/金沢21世紀美術館)など。著書として『ラブレターの書き方』(2023/晶文社)、詩集『涙のカタログ』(2023/パルコ出版)。東京藝術大学美術学部絵画科(油画専攻)卒業。東京藝術大学大学院映像研究科(メディア映像専攻)修了。