公開日:2026年3月12日

「高知の前衛 高﨑元尚と浜口富治」(高知県立美術館)レポート。60年代高知の前衛美術運動はいかに生まれ、終わりを告げたのか

会期は2月28日〜3月31日。終生のライバルだった高﨑元尚と浜口富治の歩みを通して、「高知の前衛」の実像に迫る

左から、高﨑元尚《朱と緑》(1959)、《かかし(A)》(1958)、《作品》(1958/2000)

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「前衛土佐派」の活動を戦後日本の前衛美術運動のなかで再検証する

高知出身の美術家、高﨑元尚(1923〜2017)と浜口富治(1921〜2009)の活動を中心に、1960年代の高知で起きた前衛美術運動の実像に迫る展覧会「高知の前衛 高﨑元尚と浜口富治」が、高知県立美術館で開催されている。会期は3月31日まで。

第二次世界大戦の終結後、途絶えていた欧米美術との接触が再開すると、日本各地で前衛美術運動が活性化した。1950〜60年代には大阪の「具体美術協会」、福岡の「九州派」などが生まれ、高知でも1962年に高﨑と浜口を中心とした「前衛土佐派」が結成される。

この前衛土佐派に光を当てる本展では、1997年の「こんなアヴァンギャルド芸術があった!──高知の1960年代──」展以降、高知県立美術館が継続してきた研究調査の成果として、新たに確認された作品や遺族宅から発見された貴重な資料などを一挙公開する。長らく全体像がとらえられなかった浜口の1960年代の活動や、高﨑の代表作「装置」シリーズの発展を初めて体系的にひもとくと同時に、前衛土佐派に参加した地元作家の作品や、彼らと並走した詩人たちの活動にも注目。約200点の作品を通して、1960年代高知のアートシーンを浮かび上がらせる。担当学芸員は同館の塚本麻莉。

会場風景

展覧会はふたつの会場・全7章構成で、ライバルでもあった高﨑と浜口の制作を対比しながら、関わりのあった作家たちの作品も含めて時系列で紹介。前衛土佐派の活動終了、そしてその後のふたりの展開までをたどる。各章の見どころを追っていこう。

高﨑元尚の「朱と緑」、浜口富治の「反絵画」

1960年代高知の前衛美術運動において重要な役割を果たしたのが、高知県美術展覧会、通称「県展」だ。展覧会冒頭ではまず、プロローグとして高知県展の設立背景が紹介される。

戦時の大空襲と1946年の昭和南海地震で壊滅的な被害を受けた高知市では、復興に向けて文化活動の再開を望む機運も高まっていた。そんな状況のなかで洋画家の山脇信徳と中村博が県庁に持ち込んだ公募展構想を高知新聞社が拾い上げ、現在まで続く高知県展がスタートした。「県展」でありながら行政主導ではなく、作家たちの自主運営の側面も強く、作家たちのあいだには「私たちの県展」という意識が芽生えたといい、60年代の前衛運動の土壌となった。

中村博 戦災協会 1946 高知県立美術館

第1章、2章では、高﨑、浜口の50年代〜60年代初期の作品が並ぶ。

高﨑は、県展や中央の公募展などへの出品などを通じて自身の抽象表現を追求するいっぽう、地元高知でもそれを広めようとしていた。初期はフィンセント・ファン・ゴッホやピート・モンドリアンらの影響が顕著に見てとれる作品もあるが、1958年頃から赤と緑の補色関係による幾何学的形態を描いた「朱と緑」シリーズを確立。同時期には写真家としても活動しており、「朱と緑」にも影響を与えた写真表現と絵画との接点も興味深い。

高﨑元尚 ゴッホになりたい 1947 高知県立美術館
左から、高﨑元尚《朱と緑》(1959)、《かかし(A)》(1958)、《作品》(1958/2000)

いっぽうの浜口は、山脇信徳に師事して本格的に絵画制作を始め、県展や公募展への参加を通じて前衛的な表現を発展させていく。初期の具象画から徐々に抽象性を強め、1961年の東京での初個展「刃物の入った作品展」では、その名のとおり、キャンバスに本物の刃物を貼り付けた作品を発表し、従来の絵画から逸脱した「反絵画」の実践として提示した。

浜口富治 裏町(朝) 1950代 なかとさ美術館
左から、浜口富治《作題不詳》(1961)、《海の残骸》(1961)

朽ちた舟の木材の左右から刃物が飛び出している《海の残骸》(1961)は、方々へ突き出た刃が既存の芸術への鋭利な応答かのような静かな緊張感を漂わせている。同時期の《怒鬼》(1960)では、石や建材塗料、土佐刃物などが厚く塗り固められ、さらなる物質感を湛えている。

左から、浜口富治《怒鬼》(1960)、《海》(1960)
浜口富治 怒鬼(部分) 1960 高知県立美術館

前衛土佐派の結成と「高知の前衛」

続く3章では、前衛土佐派の設立と1950〜60年代の「高知の前衛」の展開が、公募団体展との関わりや活況を呈した高知県展の状況を交えながら紹介される。

「これまでに見たことのない」表現を目指した高知ゆかりの作家たちは、県展と並行して、モダンアート協会展や美術文化協会展、新象作家協会展、シェル美術賞展といった公募団体展にも精力的に出品した。地元では前衛的な表現が受け入れらにくく、発表の場を外に求めざるを得なかった事情もある。本展では、地元作家たちの作品を、どの公募展への出品作かという点にも注目しながら展示している。

左から、柳原睦夫《貌》(1958)、坂田和《深夜》(1958)
会場風景

1957年結成の九州派が既存の公募団体展を批判し、地元美術界の再編を目指したのとは対照的に、前衛土佐派は県展を倒すべき権威とは見なさず、自分たちの表現を発表するための基盤と位置づけた。第2回土佐派展の「意識の確認」と題されたステートメントは「土佐派はなれあいグループではない」との1文で始まっているが、前衛土佐派は厳密な方針は定めず、活動の核である「前衛土佐派展」でも参加作家が回ごとに入れ替わるなど、個人を重視した自由な集団だった。

0グループ「理由なくデモして街を歩く」 1961 個人蔵
第2回土佐派展 意識の確認 1963 個人蔵

この頃の高知県展の出品作家のなかで注目したいのが、入交(山﨑)京子の存在だ。出品作《作品》(1966)は、サイズの異なる黒の円がうねるように連なり、錯視のようにも見える抽象的な絵画。

県展の初期洋画部門では、女性の「特選」受賞者が初回から25年間でわずか2名という状況のなか、高校時代から高﨑に師事した入交は、1959年に同部門に初入選して以降、出品を重ねた。また彼女は、すべての前衛土佐派展に出品した唯一の女性作家でもある。本展の出品作もほとんどが男性作家によるものだが、女性が男性と同じ条件で制作を行うことが容易でなかった時代において、こうした芸術運動への女性の参入の余地がいかに少なかったかを想像させる。

入交京子 作品 1966 高知県立美術館

また本展では、美術館や画廊もなかった1950年代高知において重要な表現の現場となった喫茶店にも注目している。喫茶店は画家だけでなく地元文化人の交流の場となっており、実際に使われていたマッチやメニュー表などから当時の雰囲気を感じることができる。

会場風景

同時期に盛り上がっていた高知の前衛詩人運動との関わりも興味深い。詩人の坂本稔や岡崎功らが立ち上げた同人誌『POP』の後継誌『MES』には、第1章で見た高﨑の写真や展評・作品評が掲載されたほか、喫茶店「茶房リオ」では浜口ら新象会高知グループとの合同展が行われるなど、ジャンルを超えた交流が育まれていた。

「行為」や「言語」を媒介とした浜口の実践

ここからは、浜口と高﨑が新たな局面を迎える60年代の実践を、周辺作家らとの関わりとともにたどっていく。

今回新たに発見された浜口による「赤い岩礁」運動関連の3点のドローイングは、本展の見どころのひとつだ。1961年頃に制作されたこれらの作品には、浜口が継続してモチーフにした「海」の風景のなかに赤く塗られた岩礁が描かれており、土佐の海岸の岩礁を実際に赤く染めて自然を変容させる計画の構想を示している。

浜口富治による「赤い岩礁」運動関連のドローイング

同時期には、架空の美術館の展覧会案内状を郵送する「絵のない(意識の)画展」や、紙片を送付して受け手に特定の行為を促す《見えない絵》など、「行為」や「言語」を媒介としたコンセプチュアルな作品を立て続けに打ち出していった。1962年の「読売アンデパンダン展」で刃物の作品が撤去される事件を経た翌年には、電気仕掛けで動くオブジェの作品をゲリラ的に発表し、作品撤去への抗議として自ら「巡回移動展」を行うなど、浜口の実践は加速し続けた。キネティック・アートの旗手ジャン・ティンゲリーとも交流し、両者の作品を並べて見るとその影響が見てとれる。

さらに本章では、前衛美術を理論的に支えた批評家のひとりである瀧口修造や、言語、思考を中心としたコンセプチュアルな作品で浜口と共振した松澤宥との交流にも光が当てられている。

会場風景
会場風景

第2会場の冒頭で紹介される1964年の「ポッポ・ポッポ」展では、一転してポップな作風が現れ、観客の意表を突く。パネルを切り抜いて形づくった丸みを帯びた形態は、女性の臀部を擬人化したキャラクターなのだという。女性をモチーフにした理由については、浜口の「女性はぼくにとって尊ぶべきものだから」との言葉が紹介されているが、女性の下半身を想起させるピンクの立体作品も含め、そこには女性を客体化し見つめる男性主体の視線が透けて見えるようでもある。

会場風景

高﨑の代表作「装置」の誕生、具体との関わり

同時期の高﨑はと言うと、「朱と緑」シリーズから離れ、1961年にジャズに着想を得た「アクション」のシリーズを手がけるようになる。しかし、これは作家自身の身体的な感覚に合わず、翌年から複数の色彩を碁盤目状に配する連作の制作へと移行する。

左から、高﨑元尚 作品 1962 大阪中之島美術館、モダンジャズ 1962 高知県立美術館

高﨑は色彩を「絵画のルールを無視して」並列することを目指したが、色の配列には自身の作為が入り込むことは避けられない。試行錯誤するなか、キャンバスが湿度に応じて反り返ることに着目。キャンバス片を基底に貼り付け、その物理的な性質を作品に取り込んだ代表作「装置」シリーズが生まれた。

黒い基盤の上に反ったキャンバス片が規則的に並ぶ「装置」シリーズだが、画面の分割構成や基盤を多層に積み重ねるなど、その展開は多岐にわたり、様々に反ったキャンバス片が並ぶ展示室は圧巻だ。「装置」は保管場所の不足などの理由から、作家の手で廃棄されることも多かったというが、今回は修復を経た数少ないオリジナルの作例も公開されている。

会場風景
会場風景

さらに「装置」の新たな展開として、高﨑は1967年以降、塩化ビニールを素材に用いるようになる。1964年の「第3回前衛土佐派展」以降、前衛土佐派での活動から距離を置いた作家は、1966年初頭に関西の「具体美術協会」に加入。前年に国内外を巡回する「第1回ジャパン・アートフェスティバル」を通じて、吉原治良、白髪一雄、元永定正らと交流を深めたことがきっかけとなった。

塩化ビニールの採用は、同展で作品を海外輸送する際に湿温度の変化で「装置」の作品がダメージを受けたことから、耐久性があり、熱で形状を制御できる素材として選ばれた。巨大な立体作品の「装置」は、平面とは異なるツヤや動感を持つ。「装置」の変遷を具体の作家たちの作品と並べて見ることでも、異なる見方が開けてくるだろう。

手前が高﨑元尚《装置》(1967)、中央は白髪一雄《天猛星 霹靂火》(1960)

前衛土佐派の終焉、そしてふたりの作家の分岐点

浜口、高﨑がそれぞれに新たな展開を見せるなか、前衛土佐派は1967年の「南日本現代美術展」をもって終焉を迎える。この展覧会は高知における過去最大規模の現代美術展であり、浜口、高﨑や具体のメンバーも含む高知と大阪以西の作家で構成された。出品作はほとんどが亡失したとされるが、高﨑の出品作である塩化ビニールの「装置」、浜口の「立体絵画」シリーズの作品など、当時の様子が資料で紹介されている。

会場風景

地方作家の存在感を示し、「中心と周縁」の序列を打ち破ろうとするねらいもあった同展だが、運営や賞の選考をめぐってメンバー間でトラブルが多発。暴力沙汰まで発生したとの証言もあり、この展覧会の活動を最後に前衛土佐派の活動は事実上終わりを告げた。

その後、高知県展では1969年に洋画部門から分離・独立するかたちで立体部門が創設され、高﨑はその審査員となる。いっぽうの浜口は1970年の大阪万博の造形物に失望した浜口は立体への限界を覚え、絵画へと回帰。立体に向かった高﨑と、絵画へ戻った浜口──ここでふたりの道はくっきりと分かれることになる。

最終章「前衛の先で:洋画と現代美術」では、その後の浜口と高﨑の創作が紹介される。洋画に立ち返った浜口に対し、1972年に具体美術協会が解散した後の高﨑は、ものを壊す過程に重点を置いた「破壊」シリーズを10年間にわたって展開する。

本展を締めくくるのは、高﨑と交流のあった大木裕之による映像作品『HEAVEN-6 BOX 天国の6つの箱』だ。高﨑が高知県立美術館で1994年に行った「破壊」のパフォーマンスを映した作品で、レンガを砕き続ける高﨑のもとへ駆け寄って、レンガを渡したり石を置いたりする妻・高﨑佳恵の姿がとらえられている。佳恵は「装置」の時代から高﨑の制作をサポートしたというが、「正史」に残る作家を陰で支えた人々の存在を示唆的に浮かび上がらせて、本展は幕を閉じる。

大木裕之 HEAVEN-6 BOX 天国の6つの箱(部分) 1995 高知県立美術館

終生のライバルでありながら、1970年代以降は異なる道を歩んだ高﨑元尚と浜口富治。ふたりの軌跡は、高知の前衛美術の歴史そのものだ。戦後の文化復興から前衛運動の隆盛と終焉までをたどる本展は、そうした運動が生まれる固有の土壌、「周縁と中央」の関係、荒々しいエピソードも含めた運動のままならなさなどをローカルな視点から掘り起こし、様々な示唆を現代の観客にも与えてくれるだろう。

なお本展最終章に絵画作品が出品されている武内光仁は、浜口に師事し「土佐派の生き残り」を自負する地元の作家。出身地の南国市白木谷には、武内が2009年にセルフビルドで建てた私設美術館「白木谷国際現代美術館」がある。美術館から車で約30分ほどの集落のなかに位置する同館では、武内の作品をはじめ地元作家の作品、そして浜口や高﨑の作品が、武内の手によって増改築が繰り返されたカオティックな建物のなかで展示されている。作品は屋外にも広がり、その規模感にも驚かされるだろう。今年3月に運営に一区切りをつけることが発表されているため、本展を訪れた際にはぜひ同館まで足を伸ばし、現在まで続く「高知の前衛」のエネルギーに触れてほしい。

白木谷国際現代美術館 外観

後藤美波(編集部)

後藤美波(編集部)

「Tokyo Art Beat」編集部所属。ライター・編集者。