諏訪敦 撮影:Hideaki Nagata
*「WHY ART」シリーズがリニューアル!──2022年に、「アートってなんですか?」という問いを軸に、百人百様の答えを記録する動画インタビューシリーズとしてスタートした「WHY ART」。今回、作家の原点から制作の根源まで、ライフストーリーを含めて深く掘り下げるロングインタビュー形式へとリニューアルを果たした。その記念すべき第一弾に登場するのは、画家・諏訪敦だ。
死を描く画家として知られる諏訪敦。しかしその絵画に横たわるのは、本当に「死」なのだろうか。
諏訪は1967年北海道生まれ。1994年にスペインに留学し、帰国後は舞踏家の大野一雄・慶人親子を18年間にわたり取材した。徹底した取材と卓越した描画技術で対象に肉薄する姿勢は、2011年のNHK「日曜美術館」での特集「記憶に辿りつく絵画〜亡き人を描く画家〜」で広く知られるようになった。ボリビアのウユニ塩湖で客死した若い女性の肖像《恵里子》(2011)の制作過程が放送されたこの回は、多くの反響を呼んだ。見ることのできない故人を描く。それは不可能への挑戦であり、遺族が求める「再会」を絵画で実現しようとする試みだった。その眼差しは、自身の家族にも向けられる。ハルビンの難民収容所で病死した祖母、10年以上をかけて描いた父親、そして昨年末に亡くなった母親。東京・天王洲のWHAT MUSEUMで開催中の個展「諏訪敦|きみはうつくしい」には、家族の死と向き合った作品を含め、代表作から最新作まで82点が並ぶ。
北海道の小さな町で『仮面ライダー』を描いていた少年は、いかにして現代日本の絵画におけるリアリズムを牽引する画家になったのか。人を知れば知るほど、遠ざかっていく。それでもなお、にじり寄ろうとする。絵を介して人とつながることの意味とは。そして、諏訪敦にとって、アートとは?
*「諏訪敦|きみはうつくしい」展のレポートはこちら。
──諏訪さんは子供の頃から絵が得意だったそうですね。美術との出会いについて教えてください。
こういうことだったと思います。 インターネット環境のない当時は、テレビ番組のキャラクターを目にできる機会は週に1回で、繰り返し見ることができませんでしたが、一度だけ見たキャラクターを、わりと正確に再現できることを遊びのなかで気づきました。『帰ってきたウルトラマン』や『仮面ライダーV3』を、似たような年齢の子供たちに描いてあげたという、多くの画家にとって珍しくもない、ありふれたエピソードなのですが、周囲を喜ばせることができた、数少ない記憶です。
──ご家庭は芸術的な環境だったのでしょうか。
父親は国立音楽大学で声楽家を志していましたが、様々な事情から中退し、北海道に移り住みました。そのため息子たちには音楽に親しんでほしいと考えていたようです。兄はピアノなどの初期教育を受けていました。いっぽう、逆らうことにだけ一所懸命だった私は、あっさりと音楽から解放されたのですが、いまはそれをとても後悔しています。幼い頃から油絵を描いていたわけではありませんが、ある日、美術教師に連行されて、高校の美術部に入ることになりました。

──高校の美術部で、どんな出会いがありましたか。
美術部の先輩のなかの数人が、「文化系の不良」のような人たちに思えて、彼らと過ごす時間がとても楽しくて、他者を拒絶しがちであった自分が開かれていくように感じました。さらに高文連 (全国高等学校文化連盟)の全道大会で、ほかの地区の学生たちが制作に邁進していることを知りました。仲良くなった他地域の学生(美術家の今義典さんなのですが)が「藝大に行く」と話しているのを聞いて、そういう道もあるのだと、初めて美術系大学が意識にのぼりました。彼が札幌の美術予備校の夏期講習に参加すると言うので、「じゃあ俺も」とばかりに、寮に入り2週間ほど通うことに。違う環境に自らを放り込んだことは画期的なことで、親元を離れて初めて寝泊まりをする経験ももたらしてくれました。

──美術予備校での夏期講習を経て、美術系大学への受験へと進むわけですね。どのような経緯だったのでしょうか。
それまで地域の進学校で、北海道大学に行くための準備をしていたなかでの方向転換の理由は、「講義科目をこのまま受け続けなければならないのか」と思い詰めていたためでした。美術系大学の受験情報も圧倒的に不足したままの挑戦でしたが、故郷の「小さな街を離れなければ人生退屈すぎる」といった切迫感も強かったので、衝動が不安を上回っていたのだと思います。
ひととおり、在京の美術系大学を受けてみましたが、唯一受かったのが武蔵野美術大学に当時存在した短期大学部でした。実技試験は自画像の課題でした。しかし、描いている最中、パレットナイフで派手に手のひらを切ってしまい試験中止。思えば用具の基本的な使い方も知らなかったのです。棄権こそしませんでしたが、合格できたのは不思議なことでした。
そんなわけで、最初から仮面浪人をしようという気持ちで入学したのですが、かつて"短美"は藝大受験に失敗した多浪生のふきだまりのようでした。でも幸い年長の学生が多い環境が私には合っていたのです。入学前に基礎をインストールしきれていなかった私は周囲の仲間に認められたくて、むしろ彼らから絵を学び、吸収しながらアートを真剣に考え始めたのだと思います。

──当時から、諏訪さんにとってアートは人とのつながりだったのでしょうか。
10代にありがちなことですが、周囲とうまくいかないという自意識を持て余していたのでしょう。ただ、絵を介在させると、いつも自分の居場所がそこに現れました。"短美"では年上の同級生たちと、仔犬が噛み合うように、意味のないことをして過ごしましたが、その時間こそが私にとって本当に重要でした。そのとき、人と交われる感覚を取り戻せたのかもしれません。
──絵と真剣に向き合い始めた諏訪さんは、卒業後、大学院に進まれます。なぜ進学を選んだのでしょうか。
「執行猶予期間」ですね。学部を卒業してすぐに、社会でやっていける自信がまだなかったからです。作家として活動するというリアリティもありませんでしたが、「自分たちにも勝ち目があるかもしれない」と、コンクールや外部の企画展に参加し始めて、「画商」という職業の人たちと関係を持ち、外に向けて発表するようになったのは、大学院に進学してからのことでした。

──1992年に大学院を修了後、作家ではなく会社員という道を選ばれます。当時、どのようなことを考えていたのでしょうか。
助手として残る話は、なくはなかったのですが、エントリーしませんでした。当時はすでに人を描くと決め込んでいたので、まず社会を知る必要があると生真面目に考えていたからです。 自活していかなければならない身でしたし、世の中を知らずに人を描くというのは、どこか欠落しているのでは、という危機感があったのです。
とはいえ、研究室の掲示板で某スーパーゼネコンの求人を見つけて即応募しました。リクルートスーツも靴も友人に借りるような適当さだったので、内定をもらったときは、「個性的な人材を求めていたのか」なんて考えていましたが、たんに入社試験の成績が良かったので合格したことを入社後に知りました。進学校での砂を喰むような日々が初めて役に立った瞬間でした。

──当時はどのようなアートに触れていたのですか。また影響を受けた作家はいましたか。
ナン・ゴールディンやラリー・クラークといった写真家に惹かれていました。ちょうど写真表現が現代美術のジャンルとして入ってきた時期と重なり、内外の写真家たちの動向には刺激を受けました。ベッヒャー派も紹介されていましたが、私はクールで形式的なアートよりも、生々しいリアリズムを発揮するような、社会の辺縁にあるカルチャーとプライベートに食い込んでいくタイプの写真家に魅力を感じていました。
90年代には、それを絵に置き換えて考えてみてはどうだろうと考えていました。何者でもない私たちは、まさに東京アンダーグラウンドの当事者だったわけですから。ただ、絵は時間がかかり、目の前で起こることは流れていきます。即時的に状況全体は描けないけれど、一人ひとりを拾い上げて描き、同じコンセプトで描いた複数の作品を並べることで、総体をとらえたいと考えるようになりました。そこだけはベッヒャー派のようですが……そこで、姿の記録に適した古典的な肖像画のスタイルを借用しました。かつて宮廷画家が王侯貴族を描いていたマナーで、とるに足らない、すぐ隣にいる同世代の若者たちを美しく、冷たく、硬直気味に描こうと。当時、そのような画家は見当たらなかったし、美術界でスペースがガラ空きであるように感じたのです。
──なぜ写真ではなく、絵という手段を選んだのですか。
当時、自分にとってのロールモデルとなるような、具象絵画でギリギリ同時代性のある表現をする人を探していたのですが、国内ではついに見出すことはできませんでした。でも、絵を描くことを放棄して違うことをしようという考えは、自分のなかから排除していたのだと思います。具象絵画を描くこと自体を反動的に見る空気があったなかで、それに対する反骨心と怒りが燃料になっていました。描くことから退却することなんかできないと、頑なになっていたのかもしれません。

──大学院修了後、1995年に文化庁芸術家派遣在外研修員として、スペインに2年間留学されています。なぜスペインを選んだのでしょうか。
日本人の常識が通用すると考えたからです。つまらない理由ですが、初めての海外はやっぱり怖かった(笑)。そこでスペインを留学先に決めました。もうひとつの理由として、マドリード・リアリズム、なかでもアントニオ・ロペス・ガルシアの存在は重要でした。さらに、寡作で知られるビクトル・エリセ監督の『マルメロの陽光』(1992)という映画を見たことも大きかった。それはロペス自らが植えたというマルメロの木を描く過程を記録したドキュメンタリーでした。映画館の最前列で大興奮しながら見たのですが、振り返ったらほとんどの人が寝ていました(笑)。劇的な展開があるわけでもなく、おじいさんが果樹を描いているだけの淡々とした映画で、おまけにマルメロの絵も完成しないから、当然だったかもしれません。しかし自分にとっては決定的な映画体験でした。
劇中、ロペスは木漏れ日や光の美しさに感動して描き始めるのですが、植物は成長していきます。目印として白い絵の具で葉につけた目印も増え続け、木の成長や果実の重さでどんどん動いていくため、不可能性は増していきます。それでも絵は描き続けられる。その在り方が非常に美しく、画家の行為としてある理想を示しているように感じたのです。
偶然というものはおかしなもので、1996年に研修期間を満了し、帰国までひと月余りを残した頃に、マドリード市街で本当に偶然、ロペスと出会いました。話すなかで彼の自宅兼アトリエに招かれる機会を得ましたが、奇跡的な運命を体験している瞬間に震えました。真正に重要な出会いは、ひょいと向こうからやってきてしまうものなのでしょう。そして、出会ってしまった前と後では、同じ自分ではいられなくなるのです。有無を言わさず内側から変革を迫られてしまう、この出会いはそのような種類のもので、生涯忘れられない出来事です。

──これまでの作家活動で、思うようにいかなかった経験はありますか。
田名網敬一さんの作品をもとに、諏訪敦のスタイルで描いてほしいという、ご本人からのオファーがありました。田名網さんの作品は戦時中に遭った爆撃の経験が反映した、ヒステリックで情報過多なスタイルです。いっぽう、私は静けさを追求してきましたので、自信はなかったのですが、アーティストとして尊敬していたので引き受けました。
でも、結果的には期待に応えることはできませんでした。描いているうちに、ただ田名網作品をリアル絵に変換すればいいのかという疑問が湧いてきて、経過報告の時点では好評だったのに、描くほどに田名網さん風味が抜けていってどんどん遠ざかってしまった。そうしているうちに、田名網さんは亡くなってしまいました。物事には限界があることを思い知った出来事でしたし、時間がかかりすぎたことにも取り返しのつかない思いがあります。
──諏訪さんご自身が、いちばん好きな作品を教えてください。
今回の「諏訪敦|きみはうつくしい」展で意外だったのは、SPACE 3の小さな《薔薇図》(2024)と自分との関係が、透明に感じられたことでした。「薔薇の絵」と言えば、いわゆる「売り絵」というイメージの代表格で、唾棄すべきものでしょう? 私もそう思い込んでいましたが、考えを改めました。コロナ禍のなかで、自分で育てて咲かせた花だったからでしょうか。花たちは枯れても驚くような色彩の変化を見せてくれて、ただ描く行為の喜びへと導いてくれた気がします。

──2002年に制作された「JAPANESE BEAUTY」シリーズについてお聞きします。日本各地に住む様々な背景を持った女性たちを描き、絵画の隣にインタビューを併置した作品ですね。個人的にとても好きなシリーズなのですが、制作背景を教えていただけますか。
2年間の海外生活では、言葉にするのも苦しくなるような差別も人並みに体験しましたが、私自身にはなんの変化も起きていないのに、帰国したらすぐに、マジョリティとしての感覚に引き戻されました。そして抱いたのは、その場にいることが自然に思える自認への疑問でした。マジョリティであることは、人種の問題だけではないことは自明で、誰もがそこになんの疑問や不安もなく居られるのかについて考えたとき、多様な来歴がある人たちと対面しながら、一人ひとりの意識を確かめてみたいと思ったのです。インタビューでは彼女たちからは様々な反応がありましたが、それをできるだけ手を加えず、ストレートにテキスト化して絵画と並べました。いま思えばナイーブで成功したとは言えないアプローチでしたが、少なくとも具象絵画の周辺では見当たらない試みではあったのです。 舞踏家・大野一雄さんへの長期取材を経た後で、視覚情報だけではなく誰の背後にもあるそれぞれの歴史の面白さに目を開かされて、充実した時期でした。

──長年人物画を描いてきた諏訪さんにとって、人を描くことの難しさとはなんでしょうか。
私は対象の情報をできる限り集めますが、情報が増えるに従って、逆にその人自体から遠ざかっていることに気づかされることがあります。人は記憶やエピソードでできていて、その人自体が目の前に差し出されるわけではありません。思い出は関係の結節点を探ることと似ていて、聞けば聞くほど、その結び目は無限に本人の外側を、中空をかたち作りながらドーナツ状に無制限に増殖し広がっていきます。それでも一向に、その人自身にはダイレクトに触れることはできない。そのようなもどかしさです。とくに故人を描くにあたり情報を集めるときは、その傾向が顕著になります。
たとえば『日曜美術館』で制作過程がドキュメントされた、《恵里子》(2011)という肖像画があります(*1)。ボリビアのウユニ塩湖で客死した若い女性の、ご遺族からの依頼で描いたものでした。写実画家のテーゼは「見た物を描くこと」なのに、ご本人を見て描けないわけです。加えてご遺族は、故人と再会するような遺族との新しい経験を求めていることを悟ったとき、無理かもしれないと感じましたが、私は不可能性を突きつけられると燃えるタイプで、なんとか描き上げることができました。

制作にあたって多くの情報を集めました。しかし、それらの多くは絵に反映されることもなく、結果的にほとんどが無駄だったのかもしれません。でも、やっぱりそれは重要なプロセスです。調べないと、何を自分がわかっていないのかさえ理解できない。望むほどに対象からは遠ざかっていくことも承知のうえで、それでも対象へにじり寄るには、知る必要があるんです。
──人を描く難しさがあるいっぽうで、それでも人を描き続けている諏訪さんに、シンプルにお聞きします。人がお好きですか。
私は依頼されなければ人を描こうとしません。自分から「描かせてほしい」とお願いしていたのは、思えば大野一雄さん、大野慶人さん、古井由吉さん、岡田林太郎さん、そして家族など、限られています。所属ギャラリーのプロジェクトで人物を描いたケースを除き、人物像の多くは志願者や、依頼を引き受けて、初めて描けたものです。
その消極性は、子供の頃、周囲にせがまれてヒーローを描いていた頃と、何ら変わっていないのかもしれません。ただ、絵画を仲立ちに据えることで、人と関われる資格が発生するような気がします。現在でも興味を失っていないということは、やはり人が好きと言ってもいいのかもしれません。

──「諏訪敦|きみはうつくしい」展では、ハルビンの難民収容所で病死したおばあさんから、お父さん、そして昨年末に亡くなったお母さんまで、ご自身の家族の死と向き合った作品群が多数展示されています。新作の「mother」シリーズは、どのような経緯で生まれたのでしょうか。
父が脳腫瘍で倒れ、治療を受けている姿を描き始め、数年後に別の病気で亡くなった後も、10年以上も「father」シリーズを描き続けたことになります。でも母を描くことには、なぜかずっと抵抗がありました。だから母を描けたことは、自分でも予想外のことでした。

母が認知症になり、ケアマネージャーさんやヘルパーさんなど、それまで関わったことのないような専門家たちとともに介護体制を整える慌ただしさのなかで、さらには母が上京するときに連れてきて同居していた叔母も、末期癌であることが判明して、治療と介護の問題がダブルで押し寄せてきました。ふたりの女性は容赦無く周囲の時間を食べていってしまいます。コロナ禍も重なり、重い判断を迫られることが多過ぎて、じつはこの頃のことはよく記憶できていません。海外で予定していた個展も延期せざるを得なくなりました。
母はとても聡明な人でしたが、知らないあいだに何度か小さな脳梗塞を経験してきたことも精密検査で判明しました。認知症の進行はとても速いもので、15分前のことさえ記憶できなくなりましたが、短期記憶が出来ないということは、つねに世界を新しく見ていると言い換えられることにも気づきました。激痛をともなうような辛い治療を受けたすぐ後に、それを施した看護師さんに、「あなた、きれいね」とにっこりとしながら褒めている場面に居合わせ、唖然としたことがあります。自律性を引き剥がされていくのに、母の善良さだけはしっかりとそこに残り、人間としてどんどん純度が高まっていくように思えました。

介護の問題は、受ける側の問題というのは言うまでもないのですが、むしろ家族や周囲の問題が炙り出されるものなのでしょう。患者本人の純粋さの輝きに反比例するかのように、私自身のなかにも醜い感情が育っていることを発見して、戦慄することがありました。本展で「うつくしい」ことの価値についてこだわったのは、この経験が動機のひとつであったような気がします。
──作品を見ると、絵画の中に入院時の書類や「母さん死なないで」などの手書きのメモが重なっています。コラージュという手法を選んだ理由は何だったのでしょうか。
入院は膨大な書類にサインすることでもありました。そのすべてが重要だったはずの情報が含まれていて、コラージュというよりも、積み重なるA4の紙が捨て難かったので、無作為に古いパネルに貼り込んでいったのです。ドローイングはむしろ後からそのパネルに参加させたような感じです。
展示をすることになったので、やはり審美的に整理したうえで、個人情報は削りました。いっぽうで、マストだったのは、ベッドの傍で描いたドローイングの制作日時についてのメモ書きです。絶対に正確に時間は記録したいと思いました。「母さん死なないで」という走り書きは、その流れで残されたものです。

──その言葉を見て、一緒に本展を訪れた友人が静かに涙を流していました。今回の個展は、諏訪さんという作家の内面に深く迫っているからこそ、多くの人の心を打つのだと思います。さらに、介護をしながら、1年間でこれだけの新作を制作されたことも驚きでした。本展の中心をなす《汀にて(Bricolage)》(2025)の制作背景についてもぜひ教えてください。
キュレーターの宮本武典さん(東京藝術大学准教授/アーツ前橋チーフキュレーター)に、本展の構成を依頼したのは、私の「こう見られたい」というエゴを後退させて、他者の目を通して見たほうが、私という美術家の実体をむしろ正確にとらえるのではないかと考えたためです。「人を描く気持ちからはぐれた」と、早い段階で宮本さんには伝えていたので、自分の状況をそのまま表すしかないと腹を括るまでは、コンセプトや展示物の試案がいくつも消えていきました。ダメなアイデアへの宮本さんの判断は厳正で信用でき、基本的に彼の判断をすべて受け入れることにしました。そうでなくては依頼した意味がありませんから。
ブリコラージュ、つまりありあわせの造形物である《汀にて(Bricolage)》を軸に新作を構成することにしたのは、彫刻と安易に称することを避ける意味合いもありました。つまり、何人も彫刻家を雇うなどして、完成度の高さを担保するよりも、置かれた状況から逃れられない私が特別な材料を買い入れるのでもなく、その場にあったありあわせたもので、たどたどしくこしらえることに意味を見出していて、たとえば展示では安全性の高い鉄材が本作を支えていますが、制作中はステンレス製の介護用手すりを流用したものを使っていました。
自分のなかから追放した人物像をゼロから立ち上げる様をみせること……《汀にて(Bricolage)》が身体を取り戻していくたびに、周囲に配置したドローイングは加筆されていくわけです。平面と立体を往復しながら、まるで時計を逆に回すように制作は進行していきました。

──最後に改めてお聞きします。諏訪さんにとってアートってなんですか?
府中市美術館の「眼窩裏の火事」展のときに、同じ質問に対して、「わからないことをそのまま提示できるのがアートのいいところ」と答えましたが、その感想は変わっていません。でも、あれから3年も経って、少しはわかるようになっているかと自分に期待していたのですが、ますますわからなくなってしまいました。
たとえば、今回は夭折した青年を描いた《正しいものは美しい》(2017〜18)を展示することができましたが、3年前の個展では、ご遺族の許可が出ませんでした。それは家から絵が不在になることで、息子を家から見送り、そして失った痛みを思い出してしまう、おそれからの回避だったのかもしれません。今回は宮本さんや、WHAT MUSEUMの企画チームの働きかけもあって、お母様からの許可をいただき、展示が実現しました。絵は物体に過ぎませんが、《正しいものは美しい》がまるで家族のように、ここまで大切にされる存在へと変化したのはなぜでしょうか。絵画の力というよりも、ご遺族の心性に起きたことを吟味しなければなりません。
私よりも上手で、魅力的な絵を描ける画家は、世の中にたくさんいます。まして、今日ではAIがより高速に、たとえば写真1枚からでも、仮想的に人が動き、話す姿さえも望むままに吐き出してくれます。本物と見分けがつきにくいレベルの映像だって、現時点でも生成が可能でしょう。

しかし、《正しいものは美しい》には、私とご遺族が話し合い事情を共有した時間、ご遺族にも肖像画制作に参加してもらいスケッチに応じてもらった記憶、私がアトリエで描いていた長い期間、関係者それぞれが完成を待っていたとき。そして納品後に絵を鑑賞してきた年月など、個別の流れ方の違う時間が含まれています。
さらには誰もが画面に残る筆致や描画の痕跡から、時間の堆積が読み取れたはずで、絵の後ろには、つねに人間の存在が感じられたことでしょう。こうやって話していると、どのような傾向、切り口の作品であれ、アートを考えると人間存在への問いに、いつの間にか立ち戻り、行き着いてしまいます。それこそがアートのわからなさの根源なのかもしれません。

*1──《恵里子》(2011)は「日曜美術館」の放送50年を記念した展覧会「日曜美術館50年展」(東京藝術大学大学美術館、3月28日〜6月21日)にて限定公開の予定。
灰咲光那(編集部)
灰咲光那(編集部)