『ズートピア2』 © 2025 Disney Enterprises, Inc. All Rights Reserved.
公開当時、メガヒットを飛ばした『ズートピア』(2016)は、全世界で記録的な興行収入を収めた。多くの観客の心を掴んだ理由は、ヒットの規模だけではない。前作が描いたのは、「多様性」という言葉の裏にある、決してきれいごとだけではない現実だった。誰のなかにも、差別意識や偏見は存在する。しかしそれらは、自分自身と向き合い、他者と関わる経験を重ねることで、少しずつ変えていくことができる。『ズートピア』は、自分と他者の違いを認め、互いに尊重し合うことが、個人だけでなく社会全体をより豊かにするのだと示した作品だった。
そして待望の『ズートピア2』は、全米で再び大きな成功を収め、豪華声優陣の続投や新たな参加も話題を集めている。続編は私たちに何を届けようとしているのか。ニックとジュディのパートナーシップは、どのように描き直されるのか。社会学者・中村香住の視点を手がかりに、『ズートピア2』が描こうとする世界を読み解いていく。【Tokyo Art Beat】
*本記事は、映画の内容に関わる記述を含みます。ネタバレを気にする読者の方は、映画の鑑賞後にお読みになられることをおすすめします。

ディズニー映画『ズートピア』では、様々な動物たちが共存するズートピアという場所が描かれ、ズートピア史上初のウサギの警官・ジュディと詐欺師のキツネ・ニックが協力して事件を解決した。ニックはその業績によって正式にズートピア警察の警察官になる。『ズートピア2』はその世界観を引き継ぎ、ズートピア誕生の謎に迫りつつ、ニックとジュディのパートナーシップも深化させている。
今作のキーワードをひとつ挙げるとすれば、「違い(difference)」とその受容ということになるだろう。今作は様々な基準での「違い」を描き、それを認め合うことの重要性をテーマとしている。映画の最初のほうで登場するズートピア市制100周年記念の新市長ウィンドダンサーのスピーチでも、ともに住む動物同士の違いとその受容の重要性について触れられていた。また、今作でジュディとニックは何度か“Agree to disagree”(同意しないということに同意する)という台詞を発する。これは、違いを認めたうえで、そのことをネガティブにとらえず、意見の相違として整理する言葉でもある。

いっぽう、“be on the same page”(同じ認識を持つ)という言葉も頻出する。これは、ボゴ署長が警察官たちに対して、事件をうまく解決するにはバディ同士が同じ認識を持っている必要がある旨を話したところに端を発する言葉だ。ズートピア警察のボゴ署長は、ジュディとニックを「危機に瀕したパートナー」(Partners in Crisis)セラピーへと送るが、そこに来ているのは種族や体格が異なる動物同士がバディになっているケースのパートナーばかりである。ヘッド・オブ・アニメーションのチャド・セラーズが言うには、「ここではあえて“類似は成功を生み、違いは失敗を生む”という考え方を視覚的に見せました」(『ズートピア2』パンフレットより)とのことだ。それに対して、今作のテーマである「違いは存在してもよくて、むしろ違いを認め合うことでうまくいくのだ」というテーゼは、パートナーがうまくいくには、“be on the same page”でなければならないと言うありふれた考えに対して挑戦していると言えるだろう。
「違い」の基準はいくつかあるが、ひとつ大きなものとして、「正義」をめぐるすれ違いがある。“Agree to disagree”という台詞が登場するシーンのなかでもとくに重要なのは、ふたりがヘビの隠れ家であるハネムーン・ロッジに行き、陰謀の一端を解き明かそうとする場面である。ジュディはそこにある証拠を全部集めて持ち帰ろうとするが、ニックは命をかけるほどのことでもないと言う。その場面でジュディが“Agree to disagree”と言い、誰かが事件を解決して、物事を正さなければならないのだと述べる。ここには正義のすれ違いが存在している。

そして、今作はジュディとニックの「パートナーシップ」に大きな焦点を当てていることにも注目したい。ふたりは、というかとくにジュディは、自分たちのことをうまくいっているバディだと考えているが、本作の冒頭時点でふたりは正式なバディになってまだ一週間しか経っていない。まだお互いのことをそんなに深く知ってもいない。そんななかでボゴ署長が「危機に瀕したパートナー」セラピーにふたりを送ったのはある意味で正しかったといえるだろう。ジュディはニックに一言もしゃべらせずに自分の話をし、さらに不快感を和らげるために足がパタパタしていたこと、その不快感の源泉は感情的に不安定なパートナーとの情緒的なつながりを持てていないことであることを、セラピーアニマルのDr.ファズビーに指摘される。
優等生気質でヒーロー願望を持ち、せっかちなジュディに対して、皮肉屋でつねに一歩後ろに引いていて感情をなかなか表に出さないニック。ふたりの微妙なすれ違いは、ヘビの隠れ家であるハネムーン・ロッジに向かう途中で象徴的に前景化される。ハネムーン・ロッジにロープを使って登る際に、ニックがにんじんペンに録音された「私は本当にただのマヌケなウサギだ」(I really am just a dumb bunny)を再生する。続けて、何回か断続的に聞こえるように繰り返し再生する――とくに「マヌケなウサギ」のフレーズを強調するように。ジュディは、にんじんペンを奪ったうえで、これはふたりのパートナーシップを象徴するものとしてプレゼントしたものであって、このような瞬間にはふさわしくないと言うが、押し合いへし合いのなかでにんじんペンは石の上に落ちてしまう。さらに、そのにんじんペンを取ろうとふたりがそれぞれに取り組むことで、息の合わなさから結果的ににんじんペンはいちばん下の地面まで落ちてしまい、壊れてしまう。

最終的にふたりのパートナーシップは、言葉を通じて修復されていく。ニックが一度刑務所に入った際に、陰謀論を暴くポッドキャストを配信しているビーバーのニブルズにハグされ、自分は孤独なキツネだから、ジュディを失うのが何よりも怖いという旨を独白する。ニックはそのことをどうやってジュディに伝えるか悩むが、ここで一度言葉にしたことが功を奏して(ニブルズにも「いま言えたじゃん!」と言われる)、物語終盤でジュディに「この世界の中であなた以上に大切な人はいない」旨を伝えることができる。ジュディもそれに応えて、ニックがいちばん大切である旨を伝える。ニックは「好きだよ、相棒」とも言い、ジュディはその台詞をにんじんペンに録音しておいて何度も聞くと言う描写も出てくる。
ニックとジュディの関係性は、「バディ」であると言うのにぴったりのもので、友情とも恋愛ともつかない。関係性のラベルを明示しないが、唯一無二の大切な他者として互いのことをとらえているという点から、ふたりの関係性はクワロマンティック的なものであるともとらえられると考える。クワロマンティックとは、「恋愛的魅力」や「恋愛的指向」といった概念が自分には適さないと考え、そもそも「恋愛感情」とは何かを問い直すなかで、恋愛とその他の強い好意を区別しないことを選ぶアイデンティティである。異性愛主義や家族主義が跋扈してきたディズニーの歴史のなかで、このような新しい関係性が出てきたことは、ポジティブにとらえられるだろう。
この作品の中心となる事件を見ていくと、その構造が入植者植民地主義だということに気づく。入植者植民地主義とは、すでに先住民が住んでいる地域に外国から人々がやってきて占領し、先住民を排除しながら、その土地を自分たちの居住地として新しい社会を築くことを指す。今作では、爬虫類がズートピアの先住民で、ウェザー・ウォールを発案し、様々な環境で暮らす動物たちが共存できるようにしたわけだが、オオヤマネコのリンクスリーにそのアイディアを横取りされ、あたかもリンクスリーがウェザー・ウォールを発案したかのように歴史が改ざんされる。そして、もともと先住民だった爬虫類はズートピアの表舞台からは排除され、オオヤマネコをはじめとした哺乳類がズートピアを牛耳るようになる。やがて、水陸生動物が暮らす(そして爬虫類が隠れて暮らす)マーシュ・マーケットを潰して、ツンドラ・タウンを拡張することも計画する。これは、爬虫類の排除のもとで哺乳類の新たな文明を築いてきたということで、入植者植民地主義のわかりやすいかたちになっている。『アナと雪の女王2』でも植民地主義が扱われていたのは記憶に新しい。最近のディズニーの大きなテーマのひとつなのかもしれない。

今作の難点として、ジュディとニックのパートナーシップの話と、作中における事件の解決とがあまりリンクしているように思えないという点が挙げられる。両方の話がそれぞれ進むのだが、あまりつながっていないのでどうもチグハグな感じがするのだ。おそらく制作側としては「違い」という点でリンクさせたかったのではないかと予想するが、ジュディとニックのある程度対等な土壌があったうえでの「違い」と、哺乳類と爬虫類という権力勾配があったうえでの「違い」とでは、その内実が大きく異なるし、権力勾配がある関係性のことをたんなる「違い」に押し込めてしまうと、差別や排除の歴史を忘却することにもなりかねない。植民地主義における先住民と入植者との関係性においては、“Agree to disagree”というわけにはいかないのだ。
また、陰謀を暴くだけで差別がなくなるのだろうかという点も疑問を感じる。現実世界での入植者植民地主義について考えてみれば、もともと先住民がいたということが認識されている場合でも、差別や排除は持続することが多いだろう。陰謀を暴いてもともとの先住民が爬虫類だということが判明した途端に、差別がなくなり、爬虫類たちが帰ってきて美しく共存することができる、というのはやや夢物語のような気がしてならない。また、そういえばニックは爬虫類が苦手という設定だったが、これはいつどのように克服されたのだろうか。明確な描写がなく、うやむやにされている感じがする。(おそらく間接的には排除の歴史に基づく)苦手意識をどのように克服するかは、ひとつ大きなテーマになり得たのではないだろうか。

とはいえ、『ズートピア』の続編という負荷の高い仕事を、制作陣は基本的にはうまくやってのけていると思う。個人的には何よりもニックとジュディのバディ関係が安易なロマンスに回収されないことが嬉しかった。ギャグも絶好調で、ナマケモノのフラッシュに運転を頼んだシーンでは“No”と言われたかと思ったら続けて“Problem”と言われたり、ピニャ・コラーダを文字った「ピニャ・コアーラ」が登場したりする。全体的なトーンは非常に明るく、最後までエンターテイメントとして楽しい作品にもなっている。