公開日:2026年4月21日

飯川雄大インタビュー。速度に逆らい、“スペース”を作る。そこに生まれる戸惑いと曖昧な時間(聞き手:田中みゆき)

飯川雄大の個展「大事なことは何かを見つけたとき」が水戸芸術館現代美術ギャラリーで5月6日まで開催中。観客の戸惑いを生む本展を作り上げた作家の頭の中は? キュレーター/社会福祉士の田中みゆきが話を聞いた(構成:杉原環樹)

飯川雄大 撮影:編集部

身近な風景や物事を注意深く観察し、人々の認識の不確かさや、社会で見過ごされがちな存在に目を向けさせる作品を制作してきたアーティスト、飯川雄大の大規模個展「大事なことは何かを見つけたとき」が、水戸芸術館現代美術ギャラリーで5月6日まで開催されている。

巨大な壁がそびえ、天井からロープが吊り下がり、複数のハンドルが並ぶ展示室。細かな説明は省かれ、そこでどのような作品体験をするかは鑑賞者の反応に委ねられている。自身が手がけてきた様々なシリーズをこれだけ多く展示するのは初めてだという本展にあたり、飯川はどんなことを考えていたのか? 「障害は世界をとらえ直す視点」をテーマに活動するキュレーター/社会福祉士の田中みゆきを聞き手に迎え、展覧会初日に話を聞いた。【Tokyo Art Beat】

*本展のレポートはこちら

戸惑って考えさせる、曖昧な空間をいかに作るか?

田中 飯川さんには、昨年私が座間市で企画した展示「ある⽇」に、出品作家のひとりとして参加していただきました。同展では、座間市役所の「相談窓口」に設置されたハンドルを誰かが回すと、建物の屋上から吊るされたバッグが動く仕掛けなどを含む、飯川さんの代表的な作品《0人もしくは1人以上の観客に向けて》を展示しました。ただ、じつは、観客が巨大な壁を動かす作品《配置・調整・周遊》は、建物の制約もあり実現しなかったんですよね。私は同作が好きなので、まずは今回、水戸で体験することができて良かったです。

飯川 見てもらえて嬉しいです。《配置・調整・周遊》は、展示する場所の建築や設備に合わせて設計しなくてはいけないから、環境を整えるのが大変なんです。予算と安全面の確保、あと調整する時間が必要で。

《デコレータークラブ─配置・調整・周遊》(2026)、水戸芸術館現代美術ギャラリーでの展示風景 撮影:阪中隆文 写真提供:水戸芸術館現代美術センター

*ここで水戸芸術館(以下、水戸芸)のスタッフが取材場所に現れ、展覧会場の一部が観客にとって「危険」になる可能性があるため、対応策を飯川に尋ねて去っていく。

田中 観客自身の発見を大切にされている展覧会なので、詳しくは触れませんが、今回の水戸の会場にはかなり大規模な仕掛けが無数に散りばめられていますよね。けれど、それらにはなんの指示も、注意書きも添えられていない。なので、取材日の今日は展覧会の初日なのですが、先ほどから美術館の方たちが会場の安全対策に奔走されています(笑)。だけど、一歩引いて考えてみると、一体誰が、何をもって「危険」だと判断するのかは難しい問題でもありますよね。

飯川  「危険」だと思っているってことは、想像が働いているときやから、危険も「面白い」に近いんですけど、怪我してからだと危ないから、擦り合わせは多いですね。企画の段階で削られてしまうものや、危ないと言われていても具体的になったら意外に危なくない部分もあるし、完成したらめっちゃ危ない作品もある。感覚や経験の話だから、本当に人によってとらえ方が違いますね。

壁の作品を2020年の「ヨコハマトリエンナーレ」に出品したときは、展覧会のオープン前に作家とキュレーターチームで市の消防署の担当者の方を案内して。危ないから展示を止めたり調整したりする可能性もあったけど、消防の人が「面白い!」と言ってくれて、もう一回体験したいとなって、ほっとしたことを覚えています。だけど、展示が始まると何が起こるかわからないから、「とにかく早く見に来て」と周りに言っていました(笑)。

飯川雄大《デコレータークラブ―配置・調整・周遊》(2020)、「ヨコハマトリエンナーレ 2020」(PLOT48)での展示風景 Photo: Takehiro Iikawa, courtesy of the artist

田中 そういった一種の曖昧さを、スタッフや観客と楽しんでしまうところに飯川さんの展示の核心があるわけですけど、いっぽう、その曖昧さは社会のなかででどんどん許されなくなっているように思うんです。

というのも、じつは先日、用事でJR山手線の田町駅で降りた際、東口の広い通路の床にびっしりと線や矢印が引かれ、多くのポールが置かれていて、「改札に向かう人はここを歩く」などと、導線が細かく指示されている光景に出会ったんですね。通行量の多い場所ゆえ、トラブル回避のための対策なのでしょうが、これほどまでに人の主体性や人同士の接触すら省かれようとしているのか、社会はここまで劣化しているのかと、驚くと同時に腹立たしく感じたんです。それとは対照的に、今回の展示空間には、観客に対するなんの強制性もありませんよね。もちろん、そのことに戸惑う人もいるとは思いますが。

田町駅の風景 撮影:杉原環樹

飯川 実際、そういうスムーズな流動性みたいなものは、今回の展示ではまったく求めていないです。むしろ、いかに戸惑って、考えたり試行錯誤したりする時間を作れるか。一回進んだ後にも何かに気づき、行ったり来たりする体験を作れるかが大事。美術館からも、ひとつの部屋に10分以上とか、観客が長く滞留してもいいよというふうに言われています。

今回、僕が大切にしているそういったアプローチを、公立美術館という場でやらせてもらえたことはとても良かったなあ、と感じています。というのも、いままでいろんなタイプの会場で展示をしてきたんですけど、比較的規模が小さくて自由度が高い会場で実験した技術や方法を、いざ公立の施設に落とし込もうとすると、とても難しいことが多かったからです。その背景には、「美術館とはこういう場所だ」という見せ方の慣習や、大きなイベントの場合、大勢の人をさばかないといけないという運営上の制約があるんやと思います。

それに対して今回の水戸芸は、もともとの作家に寄り添う姿勢の強さに加えて──本音では大勢をさばきたいと思っているかもですけど(笑)──東京のど真ん中にあるような美術館ではない点でも、作品にゆっくり向き合う時間や空間を作りやすい環境だなあと感じています。

水戸芸術館現代美術ギャラリーでの展示風景 撮影:阪中隆文 写真提供:水戸芸術館現代美術センター

美術館のスタッフを「共事者」にする

田中 「さばく」という意味では、田町駅の光景はその最たるものだったんですよね。だって、何も考えずに移動できるわけですから。そうやって、コスパ、タイパみたいな観点だけで人間の行動がデザインされていくのは嫌なんだけど、現実の街はどんどんそうなっているのを感じるんですよね。じゃあ、そのなかでどのように「待つ」時間や、曖昧さのなかで「考える」時間を担保することできるんだろうか。

お話を聞いていて、水戸芸でそうした試みができているのは、この美術館がずっと育ててきた、関わる人々のキャパシティがあるからではないか、と感じました。水戸芸が国内で最初期の現代美術館として開館したのは1990年ですが、そこから関係者のあいだでずっと紡がれて残ってきたものあるんじゃないかな、と。

水戸芸術館現代美術ギャラリーでの展示風景 撮影:阪中隆文 写真提供:水戸芸術館現代美術センター

飯川 たしかにそうかもしれません。行政から美術館に来ている結構偉いポジションの方でも、驚くほどフレンドリーに、アーティストのやりたいことを理解しようとしてくれるんですよね。

じつは僕、関西在住やから、正直あんまり水戸芸には来ていなかったんです。でも、実際に展示をすることになって、こういう場所があったのかと。もちろんスペースも素晴らしいんですけど、やっぱり働いている人たちの意識、足並みが揃うタイミングがすごく早いですね。

僕の作品の仕組みや構造のわかりにくさが原因のひとつだと思うけど、作品のプランとか、どういう展覧会にしようとか、そうしたクリエイションの時間になる前の段階でストップがかかることが多いんです。過去の安全性がわかる資料をとにかく集めて、作家側で何をやるかが完全に決まってからでないと相談にもいけないことが多かった。プランが具体的でないと許可が出せないのは当たり前なんですけど、水戸芸には常勤のインストーラーの方がいることもあって、すぐに表現の話ができ、話し合いのなかでプランを模索できたのが新鮮でした。

《デコレータークラブ─ブリングタイム》(2026)、水戸芸術館現代美術ギャラリーでの展示風景 撮影:阪中隆文 写真提供:水戸芸術館現代美術センター

田中 水戸芸の美術部門が「アートセンター」であることも大きいですよね。私も以前山口情報芸術センター[YCAM]に勤めていた際は、アーティストとは、まず「人として出会う」というか。「この作品を展示する」というのが目的ではなくて、まず「その人」をお迎えして、そこから何ができるかはいろんな時間をともにしながらかたちになっていく。それが作品ありきでない、アートセンターの良さではないかなと思います。

先日、あるところで、ひとつの施設のなかでも様々な部署を巻き込まないと実現しない飯川さんの展覧会の作り方は、地域活動家の小松理虔さんが言う「共事者」(事を共にする人)を自然と生み出す装置でもあるんじゃないか、と書いたのですが、今回の水戸芸での展示でもまさにそれが起きていたのですね。

飯川 そうですね。水戸芸ってとくに、日本でも早い時期から、「現代美術」というよくわからない分野について考えてきた美術館でもあるわけですよね。美術館といえば、すでに価値が定まった作品を展示する場所だという常識があるなかで、スタッフも観客も地域の人たちも一緒になって、現代美術ってそもそもなんだろうと考えてきた。今回、初めて一緒にじっくり仕事をしてみて、その積み重ねによる違いを実感しました。

伝えたいことが伝わるまで、ちゃんとやり続ける

田中 今回の担当学芸員の畑井恵さんとは、畑井さんの前の職場である千葉市立美術館でも一緒に展覧会を作られていましたね(「つくりかけラボ04:飯川雄大|デコレータークラブ ─0人もしくは1人以上の観客に向けて」、2021)。今回、より広い会場になるにあたって、どんな展覧会にしようと話されたんですか?

飯川 千葉の展示は小さな展示室の企画だったんですけど、自分的に完成までのプロセスにだいぶ手応えを感じた展示だったんです。今回お話をいただいたとき、あの経験ができた畑井さんとなら、新しいことや、自分がいままで見せ切れていないことができるんちゃうかっていう感覚がありました。

具体的には、壁の作品や、ハンドルの作品、あるいは「ピンクの猫の小林さん」なんかのいろんなシリーズを、ひとつの展示のなかにいっぺんに構成することです。これまでひとつの会場では多くても2つくらいのシリーズしか展示できなかった。4つ以上展示できるのは今回が初めてで、それをやろうと。とくに僕の場合、2015〜16年に作品のアプローチをぐっと変えたタイミングがあって、それ以降の作品を中心にやろうと話しました。

千葉市美術館での展示風景 Photo: Takehiro Iikawa
飯川雄大《デコレータークラブ―ベリーヘビーバッグ》(2021)、千葉市美術館での展示風景 Photo: Takehiro Iikawa, courtesy of the artist

田中 2015年頃にどんな変化があったのですか?

飯川 もともと映像とか写真とか、シンプルな平面作品をずっと作っていて、いろんな人に見てもらいたい気持ちはあったけど、結果的に美術の仲間内の閉じたところで発表していたんです。でも、写真や絵をやっている人ってむちゃくちゃいるじゃないですか。そのジャンルのなかでやっていて、自分に順番が回ってくるのかと、すごく不安になって。若い頃は自分は天才やと思っていたから、「大丈夫、余裕」と思っていたけど、それなりに歳をとったとき、「これ全然大丈夫じゃないやん」と(笑)。実際、ちゃんと埋もれていたんですね。

でも、自分が考えているコンセプトやテーマは、20年前に書いた日記やステイトメントを見返しても変わっていなくて、自分のなかでおもろいなと思えた。それを信じられるのは自分しかおらへんから、そこは信じようと。だから、根っこの部分は変えずに、表現のアプローチだけを変えたんです。人に知ってもらえるように……というと迎合しているように聞こえるけど、たんに寄せにいくんじゃなくて、自分がいちばんしたいことと、考えている言葉をつなげる作業を意識的にやったのが、いまから10年前くらいでした。

飯川雄大《デコレータークラブ―ピンクの猫の小林さん》(2022)、彫刻の森美術館(神奈川県)での展示風景 Photo: Takafumi Sakanaka, courtesy of the artist

田中 そこで出てきたのが「デコレータークラブ(*)」ですか?(*飯川がくり返しシリーズタイトルとして使用している「擬態する蟹」のこと。蟹の発見者が、その発見の感動や衝撃を他者に伝えようとするが、伝え切ることができないという点が、飯川の多くの作品の着想源になっている)

飯川 テーマ自体は以前から「デコレータークラブ」だったんですけど、表現の方法をどんどん変えるようにしたんです。自分のなかで大切なことは一緒だけど、そのことを少しでも立ち止まって考えてくれる人を増やすために、むしろ表現を変える。しかも、1回やって終わりじゃなくて、それを5年10年とやり続ける。たとえば「猫の小林さん」や壁の作品も、その狙いがちゃんと伝わって、周知されるまでやり続ける。

それまでは、やりっぱなしが多かったんですよ。自分ではいっぱい作ったつもりでも、自分がやろうとしてることが伝わっているお客さんってどんだけおるんやろう、と。自分の決めたプランや言葉に責任を持つことがすごい重要やっていうのが、そこでやっとわかったんです。今回の展示室は、その変化の後のシリーズを存分に詰め込んでいる感じです。

《デコレータークラブ─ピンクの猫の小林さん》(2026)、水戸芸術館現代美術ギャラリーでの展示風景 撮影:阪中隆文 写真提供:水戸芸術館現代美術センター

没個性の流れから個人を剥がすための、情報の伝播

田中 いまお話しされた「伝わっているかどうかの葛藤」や「言葉への向き合い方」は、会場の最後に置かれていた、数名の人々がデコレータークラブについて語る姿を収めた映像作品《衝動とその周辺にあるもの》にも表れていますね。

飯川 じつはあれは半分以上、フェイクインタビューなんです。デコレータークラブについて調べただけの嘘の知識と、「心揺さぶられたのに人に伝わらなかった体験」を語る部分が混ざっていて、どっちかわからなくなる。

田中 アートの展覧会だと映像作品は素通りされてしまいがちですが、展示会場の様々な仕掛けに戸惑った後にあれを見ると、ヒントがありそうでつい引き込まれますね。

飯川 そうなんです。僕、美術館で展示される映像作品や、その前を人が通り過ぎていくことがとても嫌で、じつは今回の展示空間は、あの映像の前で足を止めて見てもらうために作っているようなところもあります。展示で戸惑わせ、もっと情報がほしいと感じたところにあれがあったら、見てくれる人が増えるんちゃうか、と。でも、実際に見たら余計わからなくなるんですけど(笑)。

《デコレータークラブ─衝動とその周辺にあるもの》(2026)、水戸芸術館現代美術ギャラリーでの展示風景 撮影:阪中隆文 写真提供:水戸芸術館現代美術センター

田中 私も「デコレータークラブ」について理解していたつもりでしたが、あれを見てあらためて考えると、なんだかわからなくなってきました(笑)。

さっきの田町駅の話に戻ると、私たちはああやって社会の都合に合わせて、強制的にある種の「擬態」をさせられていますよね。でも、蟹の擬態と人間の擬態って、意味合いが全然違うと思うんです。蟹の擬態は生き延びるために環境のなかに自分を馴染ませる行為ですが、人間の場合、暗黙のルールや行動を共有させられ、放っておくと集団のなかに同化して没個性になってしまう。そして、その傾向はどんどん強くなっている。

それを考えると、飯川さんの展示はむしろ、そうした人間社会の没個性的な擬態から観客を引っ張り出し、一人ひとりの個別性、つまり「N=1」(たったひとりの個人)の体験を引き出そうとしているように見えます。だから、同化に抗うという意味で、やっていることはじつは「反デコレーター」的なんじゃないかと、今日展示室を見て感じました。

水戸芸術館現代美術ギャラリーでの展示風景 撮影:阪中隆文 写真提供:水戸芸術館現代美術センター

飯川 デコレータークラブのすごいところは、まさに、表面の装飾が同じ蟹が一匹としていないところです。中身は同じシンプルな生き物やのに、それぞれの場所で違うものを身につけることで、個体ごとに全部違う。いっぽうで人間の擬態って、個性がなくなっていくというか、情報が少なくなっていく感じがしますよね。言葉だけ抜き出すと同じ「擬態」に聞こえるかもしれないですけど、あり方が全然違うなと思います。

田中 人間の場合、社会の都合で擬態させられている。だからこそ、飯川さんによる観客の個別性を引き出す空間が際立つ。そうした飯川さんの試みが、より広く伝わっていくといいですよね。先ほど、水戸芸が育ててきた人々のキャパシティゆえに成立しているという話もありましたが、本当はアートの文脈を理解する人だけにとどまってはいけないというか。

飯川 普段はそういうことを考えていない人でさえ、ちょっと立ち止まって巻き込める表現をやりたいなと。僕、いわゆる地域密着した作品制作には興味ないんですけど、施設の近くをたまたま歩いている人たちや別の理由でその場を使う人を引き込みたい気持ちはあって。水戸芸の展覧会は夕方に閉まりますけど、美術館の外や別の時間帯にも作品の要素が広がって、考える時間が続くようなことができたらいいなという気持ちがあります。

撮影:阪中隆文 写真提供:水戸芸術館現代美術センター

たとえば、観客にキャリーに載ったバッグをある会場から別の会場まで運んでもらう「新しい観客」というシリーズがあって、今回も水戸芸と、同じ時期に個展を開催する東京と横浜の3つのギャラリー(KOTARO NUKAGAArt Center NEWgallery αM)のあいだでやっているんですけど、あれはその「間の空間」を展示会場にする試みでもあります。行為は地味だけど、ウェブや口コミで少しずつ情報が入ることで、違和感に気づいた人にだけ鑑賞の体験が始まる。今回はほかにも、「うわさを作る」という、情報の広がりを狙ったシリーズもやっています。

デコレータークラブも、世界中にいるのに見つけるのが難しくて「よくわからない」存在じゃないですか。それと同じで、展覧会も、じつは実際に足を運ぶ人は少なくて、写真や文字の情報でなんとなく知っている人が圧倒的に多い。作品はそうしたみんなの想像で成り立っている部分があるので、情報の伝播自体を重要な要素として使いたいんです。

《うわさを作る─夜のうわさ》(2026)、水戸芸術館現代美術ギャラリーでの展示風景 撮影:阪中隆文 写真提供:水戸芸術館現代美術センター
水戸芸術館現代美術ギャラリーでの展示風景 Photo: Takehiro Iikawa

猶予の時間のなかで、自分のスペースをつくることの大切さ

田中 飯川さんの場合、情報の操作だけで終わるのではなく、バッグを運ぶとか壁を押すとか、身体性にも重きが置かれていますね。そこにはどんな動機があるんですか?

飯川 単純に、「むっちゃ大変やった」「しんどかった」っていう記憶って、強烈に残るなと思っていて。でも、それは実際に体験した人にしかない身体の感覚で、あとで報告されてもよくわからないですよね。それでも、人につい伝えたくなる。そうやって、いかに後で思い出して、語ってもらうのか。それが大事なことだと思っているんです。

作品が完成して、ひとりの人が購入して、倉庫で大切に保管される。そういう作品のあり方もいいとは思うんですけど、僕は、ある程度の人が体験して、強烈に身体で記憶して、後で語ってしまうみたいな作品のあり方が、結構いいんちゃうかなと。僕、作品を理解するために先に文字を読み込まないといけない展示が嫌いで。それよりも現場で思わずアクションを起こし、考えてしまう。そうした展示を作りたいんです。

《デコレータークラブ─配置・調整・周遊》(2026)、水戸芸術館現代美術ギャラリーでの展示風景 撮影:阪中隆文 写真提供:水戸芸術館現代美術センター

田中 最後にひとつ。何度か出てきたように、社会全体の速度が上がり、立ち止まって考えるような曖昧な時間が許されなくなっていますよね。美術館は基本的にそうした流れとは距離を取れるユートピアだと言いつつも、たとえば現場の監視の方は、「これを押すとどうなるんですか?」とすぐ答えを知りたがる観客への対応など、現実のスピード感とのあいだでジレンマを感じることもあると思います。そこはどう対応されていますか?

飯川 さっき、「ライバルが多い表現をやっていたら仕事がなかった」という話をしたじゃないですか。それともつながるんですけど、みんなの流れるスピード感とは、やっぱり距離を置きたい。いま、美術館でさえ速度が求められていますが、とは言っても、ゆっくり時間をかけて鑑賞者に体験を伝えていく可能性が、アートにはまだ許されているなと思っていて。それも言ってる間に無理になってしまうかもしれないから、まだ許されるあいだに、そうした時間をプロの人たちとつくりたいなという気持ちがあります。

田中 「許されるあいだに」ということは、その流れはこれからもっと進んでいくと感じているということですか? 

飯川 速くなっている感じはします。

田中 とくに都内はそうですよね。

飯川 そうですね。だから、ここ(水戸)みたいな……都内じゃないって言うと怒られるけど(笑)、人が空間や時間と向き合える余裕が残っているところでやるしかない部分もあるなと思っています。人が多かったり、速い場所の場合はもっとアイデアがいるし、工夫する必要を感じています。でも、それはネガティブなだけではなくて、政治家の牛歩戦術じゃないですけど、周りの流れに対して極端に違う動きは、人をハッとさせることもできる。そうしたやり方のほうが、自分にはやれることがあるなって思いますね。

田中 今回の会場の壁にもありましたが、飯川さんのよく使う言葉に「MAKE SPACE, USE SPACE」があります。まさに、それですね。みんなの流れに乗らず、動きをズラすことで使える隙間を作っていく。

《デコレータークラブ─0人もしくは1人以上の観客に向けて》(2026)、水戸芸術館現代美術ギャラリーでの展示風景 撮影:阪中隆文 写真提供:水戸芸術館現代美術センター

飯川 そう。あれは僕がやっていたサッカーや、ラグビーのようなチームスポーツに共通する考え方らしいんですけど、一人称の活動でも言えるなと思っていて。周りと同じことをするんじゃなくて、自分でスペースを作る。その空間を使うのも自分やし、別の誰かに使ってもらうこともできる。すごい広い意味で考えさせられる言葉やなと。

いつもジレンマはあるし、周りのスピード感に負けそうになるときはあります。でも、自分がいいと思ったやつをやること、こだわることはめっちゃ重要で。タイトル(「大事なことは何かを見つけたとき」)に結びつけるわけじゃないんですけど、若いときは自分のやりたいことにこだわりを持つことの大切さが、本当の意味ではわかっていなかったと思います。だけどいまは、そこでやりたいことを粘ることが自分の仕事だし、最終的に求められているものに応えるうえで、それがいちばんの近道だということがわかってきた。

本当に、今回の展示のような空間はどんどん作ることができなくなっていくと思うんですけど、だからこそ、いまそれをこだわって作っておきたいと思っています。

飯川雄大 撮影:編集部

田中みゆき

田中みゆき

キュレーター/アクセシビリティ研究/社会福祉士・精神保健福祉士。「障害は世界を捉え直す視点」をテーマにカテゴリーにとらわれないプロジェクトを企画。表現の見方や捉え方を障害当事者とともに再考する。近年の仕事に、映画「ナイトクルージング」(2019 年公開)、「音で観るダンスのワークインプログレス」(KAAT 神奈川芸術劇場など、2017~2022年)、「オーディオゲームセンター」(2017年~)、「ルール?展」(21_21 DESIGN SIGHT、2021 年)、展覧会「語りの複数性」(東京都渋谷公園通りギャラリー、2021 年)、アートプロジェクト「ある日」(内閣府地方版孤独・孤立対策官民連携プラットフォーム推進事業、2025年)など。2022 年 ニューヨーク大学障害学センター客員研究員。主な書籍に、「誰のためのアクセシビリティ? 障害のある人の経験と文化から考える」(リトルモア)、「ルール?本 創造的に生きるためのデザイン」(共著、フィルムアート社)などがある。2026年4月より、港区立みなと芸術センター 教育・研究グループ長。